自殺は悪いことか?

「親からもらった大切な命を粗末にするなんて君は間違ってる」

首吊りによる自殺は失敗に終わったものの、ICUに運ばれ数日間意識を失い ひと月ほどの入院生活を余儀なくされた僕は職を失うことになりました。

その際に面談することになった産業医に出会い頭に冒頭の言葉をあびせられました。

-自殺は悪いこと。

頭ではわかっていても、その精神科医の言葉は僕の心に少しも染み入ることはありませんでした。

「自殺はどうして悪いことなんですか?」 今度は僕がこの問いに答える番になりました。

僕はあの医師のようにだけはなりたくない

そう思って何度も投げかけられるこの質問に、次のように答えることにしています、、、

自殺は「社会的に悪い行いであることは間違いない」が、それは問題ではない

自殺は悪いことか?

この問いに対する答えは「社会的に悪いことであることは間違いない。」です。

だけど、重要なのは自殺が「社会的に悪いことである」ことは「僕たちにとってはどうでもいい」ということの方です。

順に説明していきますね。

自殺はどうして悪いことなのか?

まずは、自殺はなぜ悪いことなのか、についてみていく必要があります。

・自殺をすると残された人が悲しむ
・自殺遺体の処理に手間がかかる
・自殺によって経済的な負担が残された人にかかる

これらのことを考えると、自殺が悪いこと=他人に迷惑をかけることだということは自明のことです。

そしてこの「他人に迷惑をかけるかどうか」ということが、そもそも、道徳が用いる「善悪の基準」の主たるものです。

つまり社会を成り立たせるために、他者に迷惑をかけない(=自分よりも他人を優先する)ことを善とする道徳的基準に照らし合わせれば

自殺は他人に迷惑をかける行いであるがゆえ「悪いこと」とみなされるのです。

「他人の自殺」は悪いこと

すごく当たり前なことを、僕はいま説明しました。

だけど、この当たり前を言葉にすることによって見えてくることがあります。

上記で見た自殺は、社会を構成する人たちから見た「(自分以外の)誰かの自殺」です。

それはこの僕の、あなた自身の、つまり「一人称の」自殺のことではないのです。

「自殺は悪いこと」、というとき、その言葉が指す自殺は「誰か他人の」自殺です。

冒頭の医師にとって、僕という他人の自殺は悪でしかありえませんでした。

それは僕の自殺は彼を含む社会に対して迷惑か、なんらかの損害を与えるからです。

それは「誰の」自殺か?

しかし、重要なのはそもそも、僕が問いたかったのは「この僕の自殺」についてのことだったはずです。

ここはとても重要な論点なので繰り返します。

自殺について語る時、それが自分以外の誰かのものなのか、それとも自分自身、つまり一人称の自殺のことなのかで答えが全く異なってくるのです。

問いが「すり替え」られる時

では、なぜ僕たちは自分の自殺について考えていた時、なぜだか「誰かの自殺」について考えてしまうことになるのでしょうか?

それは世の中には自殺についての道徳的議論ばかりが溢れているからです。

ネットを調べれば。道徳的な話の俎上に乗せられてしまった後の自殺についての話ばかりがヒットします。

だから知らず知らずのうちに、自分の自殺について調べていたはずが、誰かの自殺(=道徳的議論=自殺は悪いことかどうか?)について考えてしまっているという本末転倒が起こってしまうのです。

ちょうど冷蔵庫にヨーグルトを取りに行ったはずが、目に入ったプリンを手に取ってしまったようなものですね。

問い立ての誤り

どうしても答えが出てこない時、そもそもの「問い立て自体が間違っている」ということは哲学的探求でもよくあることです。

死にたい人が「自殺は悪いことか」を問うとき、それは往々にしてその問い立て自体が誤っています。

自殺が世の中的に悪いかどうかは、僕たちにとってはどうでもいい。

つまり「あなたが問うべきはその問いではない。」というのが答えです。

僕たちは善悪に反する考えを持つから自殺したいわけではありません。

僕たちのこの衝動は、実は社会的善悪とは全く関係のないところにあるからです。

僕たちの本当の問いは何か?

では僕たちが持っていた、そもそもの問いはなんでしょうか?

それは「この苦しみをいかに解消するか?」

ではなかったでしょうか?

確かに、問いたてを「この私の自殺は悪いことか?」と修正することは可能です。

ただこの場合の「私にとっての善悪」は端的な「快・不快」につながることになります。

すなわち、自殺をすることで私は快と不快のどちらを得ることになるか。

答えはおそらく、どちらでもない、でしょう。(死の後にいたるところが「無」であるとすれば)

そしてこの「快をえるか不快を得るか」の選択肢もまた突き詰めれば

今抱えている不快(=苦しみ)をどう取り除くか、という問いに還元されるのです。

苦しみを取り除く方法を求めれば探求は終わる

自殺は悪いことか?

この問い立てをしている以上、あなたはいつまでも答えにたどり着くことはできません。

この問いたてをする人物がもとめる回答は「自殺は悪いことではない」であり、社会はそれを認めることは決してないからです。

こう主張すると「それじゃあ安楽死を認めている社会はどうなんだ?」とさらに「誰かの自殺」についての議論がはじまります。

これほどに自殺についての問いは、その内容がすり替えられてしまいやすい構造を内包しているのです。

面倒な議論をしても無駄。

僕が数年かけたどりついた答えがこれでした。

あなたはそんな無駄な時間を費やす必要はない。

あなたに必要な本当の問いについての回答を求めれば、その探求はすぐにでも終わらせることができるのです。

この事実に気づかず罪を犯す専門家たち

あなたが「死にたい」と打ち明けた時、それに道徳的判断を加えてくる人物はすべてあなたの迷いを助長する存在です。

例えそれが資格や専門職とされる権限をもった人物であろうと。

実際に僕はあの医師に投げかけられた言葉により、数年間の歳月を「問うべきでない問い」のために費やすことになりました。

あなたはそういった専門家やネットの情報を掻い潜り、あなたが「問うべき本当の問い」を見失うことなく、その回答を求め続けなければなりません。

最後に

この事実に気がつけば答えにたどり着くことはそう難しくありません。

「死にたさ」の問題はマジックショーのようなものです。

それは種や仕掛けによって複雑化され幻想のように仕立てられます。

だけどトリックさえ見破れば、呆れるほど単純な仕組みで僕たちを騙しているだけです。

タネがわかれば、驚くほど簡単に仕掛けがわかり、答えがみるかる。

その答えはもうあなたのそばにいくらでも転がっています。

あとはあなたがそれを掴もうとするか、騙され続けることを選ぶか、そのどちらかしかありません。