秘密保持原則と「聞きたくない」現実

あなたは医師やカウンセラーに「死にたい」と告げたことがありますか?

今回は、「心の問題に対する支援活用の実態調査」にこれまでご回答、ヒアリングさせていただいた内容から浮かび上がってきた「僕たち自殺志願者にとって不都合な現実」についてお伝えしようと思います。
(cf.心の問題に対する支援活用の実態調査

・なぜか医師やカウンセラーには「死にたい」と言いづらい

・「死にたい」ことを打ち明けたが聞き流されてしまった

・「死にたい」と言ったら、「紹介状を書くから」と入院設備のある病院を紹介され診断を中止されてしまった

これらは実際に僕がクライアントからお聞きした「本当の話」です。

別の記事でも触れましたが、僕自身も過去に「死にたい」と思うことについて「間違っている」と全否定された経験があります。
(cf.自殺は悪いことか?

以上のことからある一つの問い立てが生まれます。

駆け込んだ専門機関ですら僕たちが「死にたい」と口にすることは「いけないこと」なのか?

専門機関で「死にたい」と打ち明けることはタブー?

もしかすると読者の中にも専門機関で「死にたい」について相談することを躊躇(とまど)っている人がいるかもしれません。

なので先に結論をお伝えすると、それは「やめておいた方が良さそう」です。(もちろんこれは診断を受けず症状を放置したり隠したりしろということではありません)

なぜなら、現状の専門機関(医療機関や附属のカウンセリング)には「死にたい」と打ち明けられた時に適切に対処する方法がほとんどなく

場合によっては、「死にたさ」を打ち明けることで、あなたが今後治療を受けていく上での不利益を被る可能性が少なくないからです。

そういった背景も後押しし、彼ら専門家は「死にたい」という言葉をあなたの口から聞くことを「避けようと」します。

それはなにも彼らが職務に対して怠慢だからではありません。むしろその逆。

彼らは僕たち自殺志願者と関わる際、ある「守らなければならない原則」にのっとり対応しています。

それが「秘密保持原則」です。

皆さんご存じと思いますが「診察やカウンセリングで聞き取りした情報を第三者に漏らさない」という約束のことです。

その対応原則に彼らが忠実であるからこそ、「死にたい」という言葉が専門機関の中でタブーとされてしまうのです。

秘密保持原則の「例外」

どうして「秘密保持原則」が「死にたい」をタブーにしてしまうのか?

それは「死にたい」という発言がこの秘密保持原則の「例外」にあたる可能性が高いためです。

具体例で見ていきましょう。

例えば、あなたがカウンセラーだとします。

あなたはもちろん秘密保持原則に従い目の前のクライアントが話す内容を第三者に知らせてはいけません。

ここでクライアントがおもむろにこう口にし始めました。

「私はこれから誰かを殺して自分も死にます、、、」

さて、あなたはどうしますか?

他人を傷つけたり殺害しよとする事はもちろん違法行為であり公共の福祉を考えた場合、あなたは秘密保持原則を破り警察にその事実を告げなくてはなりません。

一方で、あなたはカウンセリングを続けることでそのクライアントの抱える問題を解消し強行を未然に防ぐことができるかもしれません。

また、そもそもクライアントが本気でそれを口にしているのかどうか、、、

あなたは公共の福祉を優先しますか?それとも秘密保持原則とクライアントとの信頼関係を取りますか?

米国でのタラソフ判例

これはなにもありえない場合を想定した例ではありません。実際に1969年のアメリカで起こった事件をもとにしたものです。

詳細は省きますが、殺害された女性の名前からとって「タラソフ判例」と呼ばれるこの事案では

カリフォルニア大学バークレー校の男子学生が、ある女性を殺害するという内容を大学所属のカウンセラーに告白しました。

カウンセラーは秘密保持原則を破り警察にその旨を伝えることを上司に相談しましたが、上司はそれに反し、殺害予告は「秘密の中に隠されたまま」にされてしまいました。

その結果、数日後、男子学生は予告通り女性を殺害。殺害された女性の遺族は「彼女に危険がせまっている事実を知らせるべきだった」として大学側を訴えました。

下級裁判所はその訴えを却下して、被告を無罪としましたが、続く上告にともなう高等裁判所は前判決をひるがえして遺族の訴えを認める判決を下しました。

そこで職業責任の不履行として示されたのが次の判断根拠です。

公共の福祉と安全に必要な場合には、カウンセラーはカウンセリング上の秘密保持原則を破らねばならない

『共感的カウンセリングの面接術』古宮昇著-誠信書房(2019)より一部抜粋

「例外」への判断は当事者に委ねられ、それは「責任」を伴う

上記の判例以来、米国では「カウンセラーは危険なクライアントから第三者を守る義務があり、そのためには秘密保持を破ることが許されるばかりか、その必要がある」という認識が当たり前となり、これはそのまま現在の日本における専門機関の従事者の間でも常識となっています。

この他にも「児童虐待の防止等に関する法律」では児童虐待を受けている疑いのある子どもを見つけた場合、児童相談所などに通告することを国民の「義務」として規定しています。

そのためカウンセラーは、これら「例外」に遭遇した際、原則を離れて判断を下す必要に迫られることになり、それは場合によってはタラソフ判例のように法的責任を問われる事態に発展します。

触らぬ神に祟りなし

ここまでの話をきけば、もうだいたい推測はつきますね。

そうです。誰だって責任は負いたくない。だから「聞きたくない」んです。そして聞いてしまっても深入りしようとしない。

それが僕たち自殺志願者をとりまく支援体制の現実、限界だと思います。

捨てる神もあれば救う神もあり

ただ、だからといって僕たちは全ての支援者を疑いの目で見る必要があるかというと、決してそうではありません。

中にはこういった原則や建前から生じる「限界」を器用にすり抜けて、現実的な対処として致し方なく「死にたさ」が聞き流されるパターンも少なからずあると思います。

冒頭に挙げた

・「死にたい」と言ったら、「紹介状を書くから」と入院設備のある病院を紹介され診断を中止されてしまった

という事例。これは僕の所にやってきてくれるクライアントの中にも相当数います。

精神医療機関にもそれぞれ規模があり、入院設備を持つところとそうでない病院があります。

医師は患者からから「強い希死」があることを告げられると、なんとしてでもそれを止める義務があります。

そのために採られる具体的な方法が入院処置です。

だから、入院設備がない病院では「死にたい」という言葉を聞いた時点で診察が中断、ということになってしまうのです。

しかし、ここで、ある程度経験を積んだ医師は、患者が「自殺してしまうリスクを推察する力」をもっているため、例え本人が「死にたい」と口にしていても

入院せずそのまま治療を続けた方が良いと判断し、それを聞き流すという「大人対応=柔軟な対応」をとることがあります。

そういった現実的な対応が、現在のこの国の精神医療体制をギリギリのところで下支えしていることは間違いないと思います。

ここで、全ての専門職従事者が「責任逃れ」のために「死にたい」という訴えについて耳を閉ざしているのではないということは強調しておきたいと思います。

善意が招く不幸

次に、これは僕の身の回りで割と最近、実際にあった話です。

親族のおばさんが、ここのところ精神を病んでいるという知らせがありました。

そこで事情を聞いた所、次のようなことがあったそうです。

「息子さんが自殺を企図している。」と他県の大学に進学したばかりのお子さんの大学附属のカウンセリング室から連絡があり

それを聞いて気が動転したおばさんは急いで新幹線で我が子の住む下宿先に向かったそうです。

本人は大学を1ヶ月ほど休んでおり確かに元気のない様子でした。

しかしそれでも「なにしにきたの?」とケロッとしている。おばさんは自殺のことには触れることができず、そのまま息子さんをそこに置いて帰るしかなかったそうです。

「早く何とかしないと彼が本当に自殺してしまう」とその後、何度も大学の担当カウンセラーから連絡が入り

その度に彼女から息子さんを迎えにいくように急かされるようになりました。

おばさんは本人にLINEや電話をして安否確認をし、安心していましたが、カウンセラーから電話が入るたび気が動転し、次第に不安で心を病むようになっていきました。

その後、おばさんは息子さんのこと以外にもあらゆることに対する不安が拭いきれないようになり、精神科に通院、入院を余儀なくされてしまいました。

器の限界

この女性カウンセラーはクライアントの「死にたい」という言葉を聞き流したりせず真摯に向き合い、かつ、クライアントの安全を最優先し「秘密保持」を破り、その母親(=僕のおばさん)に連絡しました。

だけど、彼女は本来「健常だった第三者」に対し過度な不安と継続的な緊張感を与えることで、結果的に精神疾患にまで追い込んでしまいました。

誰だって、自分の息子や大切な人が「自殺を考えてる」と何度も知らせられると不安になって病んでしまうのは当然です。

また、息子さんはその後、大学には通えていないものの、僕の具体的な助言によりアルバイトを始めることができ、次第に元気になっていきました。

そして結果、今度は立場が逆転し、息子さんが入院したお母さんのことを心配するという事態になってしまいました。

女性カウンセラーの何がいけなかったのか?

それは上記に出てきた「自殺リスクの見極め」と、それに加え支援者自身の「不安の許容量」の少なさだと思います。

簡単に言うと、このカウンセラーはクライアントの「死にたい」と言う言葉を額面通りに受け取り、その不安から逃れるために「秘密保持」を破る決断をしてしまった。

つまりそれは精神的にも職務責任的にも結局はただの「保身」だったということです。

そもそもが「死にたい」

ご存じの通り、僕の目の前に(スマホ越し)現れるクライアントの一言目は全て「死にたい」です。

それでも、これまで数百名のクライアントに向き合ってきて、未だに一度も「秘密保持」を破って通報したことがありません。

そして、そのことによってクライアントを自殺させてしまったことももちろんありません。

なぜでしょう?

それは第一に、高い精度で自殺リスクの見極めができることが考えられます。

これまで、かなりリスクの高い局面に出会ったことは何度かあります。その場合は僕も冷静にそれを全力でとめられるよう付きっきりの対応をとることになります。

それ以外の場合、どれだけ本人が「死にたい」といっていても、かなり余裕を持って対応しています。

なぜその見極めができるか、正直僕自身よくわかりませんが、多分自分がその局面を体験していることが大きく関係しているのだと思います。

死にたさの切実さとその実行は別のところにある

また、「死にたい」という訴えに対し、あまりにナチュラルに対応するので

「私が本気で死にたいと言ってると思ってないでしょ?」

と訝(いぶか)しまれることがたまにあります。

だけど、それは違います。当人が「死にたいと切実に思う度合い」と、「それを実行に移すリスクの高さ」には全く別の基準が存在しているからです。

例えば「死にたく」て仕方がないのに実行だけは絶対にしないと自分でも確信している人がいれば

普段そうでもないのに、急に「死のう」と思い立ってギリギリのところや未遂まで実際に行ってしまう人もいます。

なので支援者はこれら二つを切り離して見つめる必要があると考えています。僕はそうやってクライアントの話をきくようにしています。

おそらく、先述の女性カウンセラーはそれができない支援者だったのでしょう。

不安を外に漏らしてもなんの解決にもならない

話を戻して、僕が安易に秘密保持を破り「死にたさ」をその例外扱いすることがない次の理由についてです。

それは、例え高いリスクを感じたとしても「それを減らすのは自分の責任、職務だ」と考えているからです。

僕も局面によっては不安は抱きます。

このままクライアントが本当に飛び降りてしまったら、首にかけた縄を閉めてしまったら、、、

だけどその不安を誰かに漏らしても、それを止めることはきっとできません。

10年以上前のあの日、僕は例え誰かに制止されていようと、なんとしてでも自殺を遂行していたことでしょう。

だから通報とか、家族に連絡とか、やっぱり現実劇な対処にはならないと思ってます。

そうなると、今、僕がここでクライアントを「生存」させるしかない。

ただそれだけのことです。

「死にたさ」を受け入れる覚悟

オンラインカウンセリングの多く、そして場合によっては精神科ですら「希死のある人」や「自殺未遂歴のある人」の利用、受診を事前に「お断り」していることがあります。

それは端的に、リスクを負いたくないからでしょう。

僕は人生をかけて自殺未遂をしました。

そしてなぜだか拾った人生をかけて、今度は「自殺から生還する」支援をしています。

お互いの人生がかかっている。

だから秘密保持とか例外とか、責任とか関係なくなるんだと思います。

「死にたさ」にも「生きたさ」にも背中合わせの同じ切実さがあり、それはただただ現実です。

現実に言葉は追いつけない。

だから最後はやっぱり理屈じゃないところで人は生き残りを果たすのだと思います。

最後に

かくいう理由で、たとえ専門機関でさえ、あなたが「死にたい」と告白したところで、入院以外の現実的な解決策を手にすることは難しいのが現状です。

「死にたい」外来とかできたらいいのに、、、

なんで「死にたさ」をここまで特別扱いしてしまうんだろう、、、

とか考えても社会はすぐには変わらないので僕は目の前の「死にたさ」を解消していきます。

あなたの「死にたさ」には「人生がかかって」いますか?

もしそうであるなら、それを解消しうるのは「あなたと同じ覚悟でそれに向き合うことができる」支援者だけだと僕は思います。