あなたにとって何よりも大切な存在は誰ですか?
・配偶者/恋人
・母親/父親
・こども/兄弟
・親友/ペット
・推し/大好きなキャラクター
といった人物(動物・キャラ)のことが思い浮かんだかもしれません。
ほとんどの場合ここに
・自分自身
の姿が想起されることはありません。
それどころか、最も身近な存在である「自分」のことが嫌いでたまらない
そう訴える人が少なくありません。
今回は、現代人が抱える「生きづらさ」の中でも、「自分嫌い」をもたらす根本的な原因 「癒着障壁」について詳しくみていくことにします、、、
4つの原因の1つ目
本題に入る前に全体像から確認します。
僕は前回の記事で、現代人に「生きづらさ」をもたらす根本的な原因はたった「4つ」しかない。
そして、それらは「埋込障壁」(ビルトイン・リミッター)として僕たちに予め仕込まれている「障壁」であることを紹介しました。
(cf.「生きづらさ」の原因は4つしかない)
僕たち現代人には無意識にプログラムされたバグポイントがある。ここでいうバグとは、現実にそぐわない命令、という意味合いです。
それゆえ、そのポイントに直面すると僕たちは違和感を感じ、それが不快感・居心地の悪さ・苦しさ・虚しさ、、、といった「生きづらさ」をもたらします。
では、本題です。今回はそのうちの1つ目、-癒着障壁-について解説していくことにします。
「癒着障壁」=自分と自分が癒着している?
結論からお伝えしますね。
「癒着障壁」とはあなたとあなた自身が「くっついてしまっている」状態を指します。
そしてその障壁はあなたを「自分のことが嫌い」という思いから抜け出せなくさせたり
そのことから生じる様々な「生きづらさ」をあなたにもたらしたりします。
「自分と自分がくっつく?」
「くっつくも何も一つのものだから当たり前じゃないか?」
そう思われましたか?
ごもっともです。そう思い込んでいるのが当然。
だからこれらの「障壁」は「埋込」なのです。つまり「意識できないところにある」と言うことです。
順に説明していきます。
まず、本当にあなたはあなた自身と一つのものなのでしょうか?
そうだとしたら「あなた自身」のことを嫌いな(あるいは好きな)<自分>とは一体誰のことでしょうか?
「自分」と<自分>は別人
例えば、出かけ際、僕が鏡で髪の毛をセットしていると背後に妻があらわれ一言
「誰もみてないからやったって一緒よ」
と言います。
「それもそうだなあ」
と思いつつも僕はやはり寝癖を気にかけてペタペタと髪を撫でます。
このとき僕は、誰か他人の目を気にして髪の毛をセットしていたわけではありません。
なぜ寝癖をなおしたかというと
それをみた僕自身が、「このまま外にでるのはみっともない」と感じたからです、、、
他にも、うちの近所に野菜の無人販売所があります。
大きな大根をみつけて僕は嬉しくなってそれを手に取り、財布にちょうどあった100円玉を小さな木箱に落としました。
ふと、辺りをみて「誰もいないし、もっていってもバレはしないだろうな」と思います。
だけど、やはり例え財布に100円玉がなかったとしても、それを勝手に持ち帰ることはしなかったでしょう。
それは、なんらかの理由で悪事がバレてしまうことを僕が恐れたからではありません。
いわゆる「良心」が、僕に悪事をなすことを許さなかったのです、、、
「自分」は常に<自分>に観られている
上の2つの例において、
・寝癖のまま人前にでるのはみっともない
・誰も観ていないからと言って商品を持ち去るようなことをするのは恥ずかしいことだ
というふうに僕を上から眺め、窘(たしな)めた「存在」とは一体だれでしょう?
はたまた、その存在がもしいなければおそらく僕は
・知り合いや好きな人の前にでるわけでもないなら髪型なんかどうだっていい
・誰にも見られていなければ大根くらい持っていったっていい
という具合に考えていたことでしょう。
そうです。その「存在」とはもちろん僕自身のことですね。
つまり、僕たち人間は、無意識下で、いつでも自分のことをもう1人の<自分>が離れたところから眺めている、という体験世界を生きていることがわかります。
一番身近な他人としての<自分>
こうして整理して考えていくと次のことがあきらかになります
⇨この「自分」にとって最も身近にいる他者は<自分>自身である
「自分」にとっての<自分>とは他者=別人なのです。
だからこそ、「良心」や「羞恥心」というものが成り立ちます。
なぜなら、どちらも「自分を客観的に眺める視点」を持たなければ感じることができない概念だからです。
それゆえ、自分自身を振り返る視座を持たない動物は上記の概念を能力的に持ち得ないのでしょう。
僕たち人間は、意識が立ち上がっている間は常に自分という「最も身近な他者」によって監視可能な状態に置かれていると言えます。
(ここで状況を限定したのは、この「他者」は深い集中や酩酊、混乱、睡眠といった状態に置かれると僕たちのそばからいとも簡単に姿を消してしまうことが往々にしてあるためです。)
「在る自分」と「眺める自分」
ここで一旦、語句を整理するため、共通認識としての新しい概念を導入することにしましょう。
- 生活したり他人と関わったりするこの自分=在る自分=「自分」
- その自分を嫌ったり評価したりする自分=眺める自分=<自分>
つまり、僕たちが自分を嫌うとき
「在る自分」(「自分」)のことを、第一の他者である「眺める自分」(<自分>)が嫌っている、という構図がそこにあることになります。
距離があれば折り合いがつけられる
では、どうして「自分」と<自分>自身が癒着してしまうと、自分を嫌いになったり、そこから抜け出せなくなってしまうのでしょう。
それは、他人との折り合いを考えればよくわかります。
合う人、合わない人、というものがあります。
また、同じ相手にしても、関係が良い時と悪い時があったりします。
場合によっては喧嘩もするし、時間が経てば仲直りになったりすることもあります。
つまり他人との関係はかなり動的(=常に変化しうる)です。
そしてなぜ変化しうるかと言えば、そこの距離があるからです。
距離があるからこそお互いの立ち位置を変えることができる
近づいたり、離れたり、角度を変えてみたり、、、
そうやって人は他人との関係性を調整し合って共生しています。
自分嫌い=自分との関係が煮詰まった状態
また、どれだけ仲の良い間柄でも、あまりに身近にいると「関係が煮詰まる」ということがあります。
だから夫婦でも、家族でも、ある程度の距離感が必要だったりします。
それと同じで、自分自身との関係にも距離が影響してきます。
「自分」と<自分>が1つになっている(そう認識している)人は自分自身との距離が近すぎることにより関係が煮詰まります。
一方で、<自分>のことを第一の他者として認識できている人は、例え、自分と一時的に関係が悪くなることがあったとしても、必要に応じて距離をとって関係性を調整することができます。
この自分との距離感の調整を拒むのが、「自分は自分なんだ」という思い込み、すなわち「癒着」なのです。
自分は思い通りにならないもの
また、自分と自分が癒着しているからこそ
おもい通りにならない自分に苛立ったり、許容することが難しかったりするのかもしれません。
そもそも自分は第一の他者なんだ、という認識があれば
他者なんだから思い通りにならなくて仕方がない、とある程度諦めがつくものです。
自分は自分なんだからコントロールできたり、思い通りの姿であって当たり前だ
という前提が、そうではない現実の自分に対して否定的な認識をもたらすのかもしれません。
「思い込み」の由来
では一体なにが、僕たち現代人に<自分>は「第一の他者」であるという事実に反する「誤った認識」を植え付けたのでしょう?
それが西洋からもたらされた「近代的自我」という概念です。
例えば、心理学では、自分というものをエゴ(ego)とセルフ(self)という術語で説明します。(それらは日本語ではそれぞれ「自我」、「自己」と訳されることが一般的です。)
エゴ(=自我)とは僕たちが普段意識している自分のことであり。セルフ(=自己)とは無意識下を含むさらに広範な自分のことを指します。
他にも学派によりこれらの派生概念が多数登場しますが、ここでの議論とは関係がないので割愛します。
そして重要なのが、これら西洋からもたらされた「自分」を取り巻く理論は、終始、「自分という閉じた存在の内側の分析」にばかり視点が向かっており、「自分を外から眺める」自分というものに対する洞察が大きく欠如してしまっている、という点です。
そういった偏った概念形式を植え付けられてしまえば、【自分=「在る自分」×「眺める自分」の混合体】という「現実のあり方に沿った」自分への認識の方法が湧き上がってこなくなるのは当然のことです。
ちょうど、「2次元平面上でのレトロマリオ」しかプレイした経験のない人に対して、「3Dエリアを駆け回るマリオ」の姿を想像しろと言ってもピンとこないのと同じことですね。
(なぜ、僕たち「日本人が生きる現実生活」と「西洋由来の世界解釈」の間に、こういった乖離があるのかについてはしっかりとした、社会学、文化人類学、宗教学的根拠がいくらでもありますが、その話はまた別の機会に触れることにします。)
自分との関係の「初期設定」はどうやってきまる?
ここまでの話で、自分を嫌う<自分>と、この「自分」とは別の存在なんだという認識を手に入れれば、他人との折り合いをつけるのと同じやり方で、自分自身のことを許したり、関係を築き直したりすることができるようになる、ということはご理解していただけたと思います。
ただ、ここで、まだ触れていない別の問題について見ていく必要があります。
それは、そもそもの自分嫌い、つまり「物心ついたころから感じていた自分を受け入れがたい感覚」は一体どこからやってきたのか?
という問いです。
確かに、自分との距離がうまく取れないことで、自分との折り合いが一時的につかなくなることは誰しもが経験することでしょう。
しかし、自分嫌いに苦しむ人の多くは、「そもそも、自分は自分のことが嫌いだった」という感覚をもっています。
では、この「初期設定」は一体どこで決定されてしまったのでしょうか。
「第一の他者」=まなざしにより造られたもの
肉体を持って、外界と関わる「自分」。
そしてそれを認識し、評価したり、制約をかけたり、褒めたり、嫌ったりする<自分>
もちろん前者はあなた自身です。
そして後者、すなわち「第一の他者」とはいったい何者なのでしょうか?
僕はそれを「レリーフ/relief(「まなざし」により浮き彫りされたもの)」と表現しています。
生まれて間もない頃に「あなたをみつめていた眼差し」により形成されたもの、それが「第一の他者」の正体です。
多くの場合、それを与えたのは母親や父親だったりします。
そのほかにも、外界の認識もままならないあなたにむけられた眼差しの数々、それがそのままあなたの「第一の他者」を形作っていくことになります。
あなたのそばにいつでもいる、あなたを見つめる視座はそうやって形成されていったのです。
第一の他者=認識の形式
「幼い頃の自分に向けられていたまなざしが第一の他者?ちょっとよくわからない。」
そういった声が聞こえてきそうなので、さらに説明を加えていくことにします。
肉体を持った「自分」には実体が在ります。
一方で、「第一の他者」はそれをもちません。
しかしそれは確かに存在しています。
そう言った場合、その正体は「内容」(=実体)に対する<形式>(=働き)であることがほとんどです。
そして「第一の他者」=レリーフ=<自分>もまた形式です。
幼い頃のあなたに向けられた認識の形式の集合体、それによって浮き彫りにされたもの
つまり働きかけによって浮かび上がった存在、それが第一の他者=眺める自分=<自分>の正体です。
真っ白な紙を鉛筆の線で塗りつぶしていき円形に輪郭を型どります。
輪郭の中身は、何も描かれていない白紙です。
しかしそこには白い円形が浮かび上がり、僕たちはそこに存在を認識します。
「第一の他者」や意識といわれる実体を持たない働きは、こうした形式の在り方そのものなのです。
少しだけ難しいですね。
「自分嫌い」の初期値はどうやって設定されるか?
あなたを嫌う<自分>は幼少期に向けられた誰かのまなざしによって彫り起こされたものであることがわかりました。
そしてそれがあなたの「第一の他者」によるあなた自身への認識、評価の初期値を決定づけます。
こういうと
- 私が自分のことを嫌いなのは親が私のことを嫌っていたからだ
- 私は幼少期に大切にしてもらえなかったんだ
といった疑念が浮かび上がり、それが「毒親」とか「アダルトチルドレン」といった理屈に関連づけられてしまうかもしれません。
しかし、そう考えるのはあまりに早計です。
なぜなら、「レリーフ/relief」はあくまで、あなたにむけられた認識の形式の「集合体」だからです。
たとえば、うまれてまもないあなたが「オギャー」となきます。
その時に、周囲からあたえられた様々な反応(リアクション)が、あなたの記憶に蓄積されていきます。
その反応は、両親や家族、養育者といった人物が「意図して与えたものとそうでないものの両方」を含みます。
また、外界にさらされまもない脳は外部から受け取る夥(おびただ)しい量の情報を電気信号に置き換え処理、蓄積します。
それらの情報の蓄積の総体としてできあがるのが、認識の形式(=第一の他者)なので、その形式が例えネガティブなもの(すぐに声をかけてもらえなかった、欲求がみたされなかった)を含んだからと言って
それが、あなたに向けられたまなざしや反応のすべてに悪意や否定的な思いが込めれれていたということの証拠にはならないのです。
平たくいえば、あなたがどういった理由で、そのレリーフを手に入れることになったかには「変数が多すぎて一つの要素にその起因を還元することなどできない」ということです。
たとえ愛情豊かに幸せな環境で養育されていたとしても、否定的な認識の形式が浮き上がることは十分にありうる。それが現実でしょう。
同じ両親、同じ家に育った兄弟、姉妹にしても、出生の順や、その時の家庭環境によって、手をかけられる時間や反応に差がでることを考えれば、このことは容易に納得がいくと思います。
「犯人探し」は意味がない
そしてなにより、(精神分析的な手法にありがちなのですが)現在自分が感じている苦しみについての「犯人探し」をすることは前向きな結果を生み出すことがまずありません。
「毒親」「アダルトチルドレン」「トラウマ」といった理論が人を惹きつけるのは、そこに「恨み」や「復讐」という別の原動力が存在しているからに違いないでしょう。
そういったネガティブな動機を燃料にして起こした思い、行動には必ず苦しみの「見返り」が伴います。
だから僕は犯人探しなんかしても意味ないし、それを行うことそのものがあらたな病理なのだと信じて疑いません。
初期設定は「運」にすぎない
僕たちがデフォルト値として与えられたレリーフのあり方は「運によるもの」だから「仕方がない」と僕は考えています。
「仕方がないで済まされては困る」と反論したくなる人もいるかもしれません。
それでも僕がこう言い切ってしまうのは、レリーフは容易に何度でも作り替えることができるからです。
一生変えが効かないとすれば、それは宿命であり、その現実を呪いたくなるのはよくわかります。
だけど、次があるなら、今目の前にあるものは「運」と割り切って、次に進むことを考えた方がいいと思えるのではないでしょうか?
トランプで初め受け取った手札が悪いからと言って、ゲームを投げ出す人は遊びに向かない人です。
トランプゲームは「運」によって決まる要素を覆して勝利を手にできるという「遊び」があるからこそゲームとしてなり立ちます。
人生も同じようなものではないでしょうか。あなたは「なぜだか与えられた」その初期設定に、いつまでもこだわって留まり続ける必要など何処にもないのです。
癒着障壁と関係のある「生きづらさ」
癒着障壁は、あなたから「第一の他者」との折り合いをつける機会を奪い、自分嫌いの解消を妨げます。また、第一の他者の初期値は「運」によって決まるものであり、それはいくらでも作り替えることができることをあなたは知りました。
この根本的な「障壁を除去」しさえすれば、あなたは以下のキーワードに関係する「生きづらさ」を根こそぎ解消することが可能です。
ここに、一例を挙げておきます。
- 自分嫌い
- 自己肯定感の不足
- 自己効力感の不足(自分が働きかけても、他人に影響を与えることはできない)
- アダルトチルドレン
- 毒親
- トラウマ
- 共依存
最後に
今回は「生きづらさ」の原因となる障壁のうちの1つ目である「癒着障壁」について解説しました。
それは埋込であるがゆえ、僕たち現代人が気づくことができないところで悪さをします。
そしてそれは障壁となり僕たちからなんらかの可能性を奪い去っていきます。
ただ、それらは適切に認識し、ある正しい方法で対処すれば必ず取り除くことができます。
次回以降もこれら「埋込障壁」について詳しく見ていくことにします。