「異常な私、特別な私」②標準障壁

・発達障害
・人格障害
・適応障害
・双極性障害

現代ではこれら「精神障害」が実に身近なものになりました。

身近になった、にも関わらず「障害」という言葉には様々な社会的な議論が未だに付きまとい、それに関わる人々を悩ませています。

・どこまでを障害とするのか?
・障害は「甘え」なのか?
・障害はオープンにすべきなのか?

また、近年よく耳にするようになった「障害=個性」という考え方は、聞こえはいいかもしれませんが、そこには

障害までも「特別な私」を維持するための「糧」にしてしまう、という

「障害とは別種の心の病理」が見え隠れしているように思えてなりません。

今回はこれら「障害」を取り巻く

様々な障害=(論点がズレた無駄な議論)

を 全部まとめて片付けてしまおうと思います、、、

4つの原因の2つ目

本題に入る前に全体像から確認します。

僕は以前の記事で、現代人に「生きづらさ」をもたらす根本的な原因はたった「4つ」しかない。

そして、それらは「埋込障壁」(ビルトイン・リミッター)として僕たちに予め仕込まれている「障壁」であることを紹介しました。
(cf.「生きづらさ」の原因は4つしかない

僕たち現代人には無意識にプログラムされたバグポイントがある。ここでいうバグとは、現実にそぐわない命令、という意味合いです。

それゆえ、そのポイントに直面すると僕たちは違和感を感じ、それが不快感・居心地の悪さ・苦しさ・虚しさ、、、といった「生きづらさ」をもたらします。

では、本題です。今回はそのうちの2つ目、-標準障壁-について解説していくことにします。

「標準障害」=「正常:異常」を想定することから生じる呪い

今回も、結論から述べておくことにしましょう。

精神障害における診断根拠はあまりに曖昧であてになりません。(詳しくは後述します。)

「障害」というレッテルは「できることとできないことの判別を妨げる」というやり方で、それを自認する人に対して「できることまでできなくしてしまう」という弊害をもたらします。

また「障害」=「個性」という認識もまた、その人の可能性を奪う危険性を大いに孕(はら)みます。

本来、社会生活において支障が生じる程の「障害」を抱える人が取り組むべきことは、その人の「能力的な適正の判別・自覚とその調節」だけです。(もちろん社会福祉制度を活用するために診断名や認定を得ることは現実生活において必要なことです。)

しかし自分の能力的なあり方を「個性」として断定・固定してしまうことは、それら「取り組みの余地を奪う」結果を招くことになります。

ーこれは私の(この人の)「個性」だから、「このままでいい」

聞こえはいいですが、この断定は「呪い」の一種に他なりません。

そこで重要なのが、「能力における適正や可能性はそもそも多様であり、ある程度変化しうる」という現実に沿った認識です。

標(しるし)と障(さわり):「精神病=精神障害」の起源

任意の「標準」を規定し、そこから外れることを「障害」とみなす。

ある時代のある地域で始まった特定の「ものの見方」が、「正常:異常」という構図を作り出しました。

現代人の生きる現実にそぐわない、この「正常:異常」という二項対立の区分こそが、僕たちに「生きづらさ」をもたらしているのです。

中世的で人文主義的な狂気経験から、狂気を精神病のなかに閉じ込める現代の狂気経験への移行

『狂気の歴史』ミシェル・フーコー(1926~1984)

上の引用はフランスの構造主義の哲学者・思想家であるM・フーコーのものです。

この書物で彼は、現代において世の中で認識されている「狂気」というものは、歴史的に普遍性のある病ではなく、近代ヨーロッパのブルジョワ階級成立期に彼らの利害が社会を動かすようになって初めて、認識された特殊時代的な病気にすぎないと述べます。

さらに、それまで狂気は、病気として認識されていなかったばかりか、狂人は社会に融合して生きていられ、狂気が非理性として理性から排除され、社会の外に監禁されるようになるのは、きわめて新しい時代の出来事なのである、と続けます。

つまり、この書物により彼は

・「狂気は普遍性をもった病などではなく、恣意的に作られた病にすぎない」

さらに

・「それは理性が重要視された時代背景において非理性として位置付けられることにより排除されたにすぎない」

と「狂気という病」の成立について譜学的根拠を明らかにしました。

フーコーの言う「狂気」とはもちろん「精神病=精神障害」のことです。

そしてそれは「理性:非理性」という二項対立の考えにより社会の外に「監禁」されるようになったとあります。

ここでいう「理性:非理性」はそのまま「標準:標準外=障害」に置き換えることができます。

また、「監禁」という言葉は、現代社会において「障害」を抱えるとされる人々が社会生活において感じる「疎外感」をそのまま表しているように思えます。

こうした背景をもって「正常:異常」という分類が作られ、現代を生きる僕たちは「障害」というレッテルやそれを取り巻く議論に苦しめられることになったのです。

(さらにこの「理性:非理性」という二項対立の根にあるのはプラトン(紀元前427~紀元前347)の「イデア」という名の幻想だと僕は考えています。)

確たる診断基準が存在していない

「歴史的背景はさておき、現代では精神障害は精神科で専門家によるきちんとした診断を受け、障害について認定がなされているではないか?」

そういった反論が聞こえてきそうなので、その点についても触れておくことにします。

冒頭に挙げたようなほとんどの「精神障害」には生理学的な根拠がないだけでなく、確固たる診断基準もありません。

なぜかというと、これら精神障害の診断基準(現行では主に『DSM-5-精神障害の診断・統計マニュアル第5版-』)の内容そのものが、数十年〜数年のスパンで大きく変化しいるという事実があるからです。

そしてそのスクリーニングの網目は年々荒く、つまり基準が「緩く」なっています。

例えば近年、ADHDなどの発達障害の診断を受ける若年層の増加が話題になっていますが、その増加は診断基準の改定や社会的キャンペーン(政府や製薬会社による「精神障害の疑い」による通院の推奨)の増加と相関があることがわかっています。

平たくいうと「外的な利害」のために「診断数」が現実的に「操作されてしまっている」ということですね。

また、僕も個人的に経験がありますが、精神科や診療内科でつけられる診断名は担当する医師や、場合によってはこちらの意思、要望に応じて、都度変わることが普通にあります。

このように、生理学的根拠がはっきりしている外科的な病気と比較して、明確な根拠がないだけでなく、その診断基準までが恣意的に操作されてしまっているという、めちゃくちゃな状況が「精神障害」とその認定をとりまく実情なのです。

精神障害という縁(よすが)を失った人々はどうすればいいのか

ここまで、「精神障害」という概念について

人の精神面についての「正常:異常」という線引きから生じた精神障害(=狂気)という考え方は、ある地域のある時代背景において恣意的に作られたものでしかないこと

また、現代においてその判断根拠となるものには生理学的な根拠も普遍的な基準もなく、外的な利害関係によって操作されてさえいること

がわかりました。

この内容をきいて不安になってしまう人が少なくないことは僕は経験的に知っています。

様々な診断名を含む「精神障害」という概念は、それを与えられた人にとっての縁(よすが=心の拠り所)になることが少なくないからです。

人はよくわからない状態を嫌う性質を持っています。

自分の精神におこった不調や納得のいかない困難さ

それに対して名前がつくことは、それだけで不安定になった精神の救いとなりうるからです。

しかし、この救いは一時的で麻薬的なものでしかないことは、ここまでの議論で既に明らかになっているはずです。

では、そんな「精神障害」を持つとされた、はたまたそれに類した症状を抱えた人はどうすればいいのでしょうか?

ここからはその疑問に対する具体的な回答を述べていきたいと思います。

問題を正しく認識する

「正常:異常」という二項対立をヒトの精神にあてはめることで作られた「精神障害」という概念は虚構でしかありません。

しかし、それでも僕たち人間には社会生活を送る上で支障をきたすレベルでの「なんらかの能力的な困難さ」に直面することはあります。

この存在はそれを感じる人にとっての事実であり現実です。

ではその困難さ、問題とは「精神障害」と名づけるに相応しくないとすれば、いったいどういったものなのでしょうか。

僕たちはいつでも「現に在る問題」に適切に対処するため、その存在について「正しく把握」しなければなりません。

能力の絞り

僕は人に「能力的な困難さ」をもたらすものを【「能力の絞り」(スペック・フォーカス・ポイント)における差異】と表現しています。

説明していきますね。

人間に限らず生物にはそれぞれ能力の仕様(スペック)があります。

チーターは走る能力に優れ、ナマケモノは楽をする能力に長けているといえます。

同じように人間にも能力における絞り(特化したりフォーカスする範囲)があります。

また、それは単に足が早い、勉強ができる、話すのが上手

といったようにある程度、固定的、静的な一面だけでなく

集中力の程度や気分の浮き沈み、不安感の高低など、日内変動や日にちを跨いで動的に変化する能力・性質といった変動的・動的なものも含みます。

さらには自己意識の形成の照度にそれをあてはめれば

社会性や社交性、他人との関係の築き方といった、いわゆる「性格」のあり方にまでその射程を広げることができます。

そしてその「能力の絞り」は人により様々なだけでなく、その個体の中でも時間帯や期間、あるいは成長の過程でかなりの幅で動的に変化する可能性を持っています。

能力的な困難さ=「能力の絞り」の外にある課題

では僕たちが社会生活において「障害」が生じるほどの困難さを体験するとき、この能力の絞りについて一体何が起こっているのでしょうか。

答えは簡単です。

「能力の絞り」の「外側」にある課題に直面すれば、人はそれを乗り越えることが難しい「困難」と感じます。

  • 不安の強い人にとって、「緊張をようする状況」は「能力の絞り」の「外」にある課題です
  • ある組織における関係性が煮詰まり職務が困難になってしまった人にとって、その場での就業の継続は「能力の絞り」の「外」にある課題です
  • 自己意識の形成の程度が淡い人にとって他人との交流を要する環境は「能力の絞り」の「外」にある課題です

これら、当たり前の状況はそのまま上から順に

  • 不安障害
  • 適応障害
  • 自閉症(広汎性発達障害)

という「精神障害」に位置付けられています。

個性神話から生まれた「障害=個性」という嘘

いつからか、僕たちは「個性的であること」を良きことと教えられ、それを強要される環境に置かれるようになりました。

その流れに取り込まれるように「障害=個性」という綺麗事がまことしやかに語られるようにもなりました。

僕は上記の考えで

「能力には人それぞれ個性があるから、できることと、できないことがあって仕方ない」

といった、「おめでたい」主張をしたいわけではありません。

なぜ「おめでたい」かというと、それを語る人はいつでも第三者だからです。

その「障害=個性」に悩むひと当人にとっては「個性」で片付けられない深刻な問題がそこにあるのが現実です。

「個性といった耳障りのいい言葉で、この困難さを終わりにされたくない」、それが当事者が抱く本心でしょう。

「障害」をもった「特別な私」

一方で、自分にある診断名がついたり、「障害持ち」と認定されることを「積極的に求める」人たちも現れる事態となってしまっているようです。

「障害=個性」という誤った認識は、個性神話時代において「障害」すらも「自分の個性を保つための材料」として消費されてしまうのでしょう。

(クライアントから聞いて初めて知ったワードなので確かではありませんが「ファッションメンヘラ」という言葉は、ちょうどこのあたりの現象を現しているのではないでしょうか)

いうまでもなく、このような不純な動機で形成された「特別な自分像」が、その人の精神活動や社会活動に良い影響を与えることはまずありません。

焦点を「排除」ではなく「困難の解消」に置く

では僕がここで導入した新しい概念=「能力の絞り」というものは、能力的な困難を持つことを「障害」とみなすこれまでの方法といったい何処が異なるのでしょうか。

それはその焦点が、「それを感じる人の困難さを軽減したり、取り除くことにおかれている」ことです。

(ここでフーコーの引用パートを思い出してもらうことになりますが、「狂気=障害」には理性による「排除」という動機が前提にありました。)

繰り返しになりますが「精神障害」というレッテルは、能力的な困難さの範囲をあまりに雑多に捉えるせいで、それを自認した人物に対して「できることまでできなくしてしまう」という事態をもたらします。

ちょうど、散らかった部屋にあるものを「大きくて真っ黒なポリ袋」のなかに全て放り込んで「片付けた」と思い込むのと同じです。

そうやって片付けを済ませてしまった人は、必要なもの、そうでないものを一緒くたにすることで、必要なものを必要な時に取り出す機会を失ってしまいます。

一方で、「能力の絞り」という概念には絞り(フォーカス)の「調節」という概念が予めそこに強く意識されています。

(アナログのカメラの絞りをイメージしてもらえばわかりやすいですが、絞りにはそもそも変幻自在になるという了解があります。)

つまり「能力の絞り」の差異により、人には能力的に困難と感じる状況や境遇を体験することがあるという認識は

能力の絞りの調節によってその困難さを軽減したり解消したりできるのだという希望をもたらします。

そして、その希望とは、ただの楽観などではなく、現実的な人間の能力のあり方に即した、その人の能力的な可能性を潰さないという「スタンスそのもの」のことを指します。

先の「部屋の片付け」のアナロジーを用いるなら、今度は「透明な複数のポリ袋」を用いて、雑多に転がったものを一つずつ丁寧に分別して、「できる」袋と「できない」袋に整理していく。

また、それら袋には封をせずに、いつでも仕分けをやりなおす余地を残しておいて絶えず分類の見直しをしていく、という向き合い方、方法です。

それが能力的な困難さに直面している人にとって必要かつ現実的な困難さへの対処法であることは疑いようのないことでしょう。

能力の範囲の見極めと可能性の拡張

ここで、障害を持つとされる人、またそのような症状に悩まされる人が第一にすべきことについてまとめておきます。

「障害」や診断名のレッテルはあなたから可能性を奪い、能力だけでなく、社会や行動範囲までも狭めてしまいます。

なので、そうなる前に自分の能力の絞りについてよく認識することが必要になります。

具体的には

  • 自分が困難と感じることは何なのか?
  • それが困難となる原因はなにか?
  • それ困難を軽減する、解消するための別の方法はないか

を考えていきます。

この時に、他人からの意見を参考にすることはあまりお勧めしません。

その他人はあなたを「〇〇障害」をもった人物として決めつけ、偏った見方をしている可能性が少なくないからです。

なのであなたは自分自身の体験について、冷静に客観的な視点を持ち込み、観察する必要があります。

また、その見極めをおこなったうえで、できることには継続的してとりくみ、できないことには具体的な支援を申し出たり、代替策、迂回策をとるようにしていく。

さらに能力の絞り(できること)は長期的な視点で見た時にかなり変動するものであることを頭に入れ、絶えずできないと思っていることに挑戦や調整をおこなっていくことをお勧めします。

それが結果としてあなたの人生を豊かに、楽にしてくれることは間違いありません。

それは僕がこの目で、そういった方法で、自身の「能力的な困難さ」とうまく付き合う術を手にし、社会や関わり可能性を広げていったクライアントの姿を既に何十人も目の当たりにしてきているからです。

障害に関わる疑問に答える

僕は冒頭で

「障害」を取り巻く、様々な障害=(論点がズレた無駄な議論)を全部まとめて片付けてしまう

と約束しました。

実は「障害」をとりまく無駄な議論は、「能力的な困難さ」に対して「障害」という言葉を当てたことより生じている場合がほとんどです。

「障害」という言葉に「排除」の意図が隠れていることは既に触れましたが、それが話をややこしくしてしまうことは直感的にもご理解いただけいると思います。

なので、そもそも「障害」という語を用いなければこれらの無駄な議論はすべて泡とかしてしまうだけです。

順に見ていきます

・どこまでを障害とするのか?

⇨この議論は、実は第三者(認定基準にやそれによって利害などの影響をうけるステークホルダー)にとってのみ重要な議論です。困難さを抱える当人にとって、自身が障害者として認定されるかどうかは、「能力的な困難さ」の解消に影響を与えません。

障害者認定されたからといって、困難だったことができるようになるわけではないからです。

ただ、障害年金や雇用契約における配慮を得るための手段となることは間違いないので、そのための「建前」とわりきって認定を受けたり制度への申請をすることをお勧めします。

そうでないと既に述べたように「自分は障害者」というレッテル貼りによる弊害をモロに受けてしまう危険性があるからです。

・障害は「甘え」なのか?

⇨例えば発達障害について「理解を得られない」、「だれだってある程度の障害を持っているから発達障害だからできないというのは甘えだ」と認識されるといった議論があります。

これらも「障害」という「雑多な括り」で済してしまうことによって生じる議論です。

全てひっくるめてまとめて「障害」で片付けてしまえば、本当にできない面も、できる面もわからなくなってしまうのは当たり前のことです。

だから両者の言い分は「共に正しくもあるし、間違ってもいる」という事態になり、結果、双方ゆずらない水掛論となります。

さらにそこに「障害」という言葉のもつ否定的なニュアンスが、道徳的議論を呼び出し、話をややこしくしていきます。

一方で、能力的な困難を「能力における絞りの差異によるもの」と認識すれば、「できることとできないことを整理する」という視点がうまれるため、能力的な限界と甘えは自ずと区別がつくようになります。

ここで重要な点が、「当事者本人が能力の限界の範囲を見極め、関係者や雇用主などに予め明確にして伝えておく」ことにあることが分かります。

・障害はオープンにすべきなのか?

⇨雇用において障害者枠というものがあります。

そこで「障害者」として認定された人がこの枠で雇用されるか、それとも一般枠で雇用されるかという選択が生じることになります。

僕は能力的な限界を見極め、可能であれば一般枠での雇用を希望して構わない、と考えています。

あるクライアントが障害者手帳を持っており、数年間「障害者枠」での雇用形態にありました。

あるきっかけで転職することになった際、彼は当然のことのように「障害者枠」に絞って就職先を探していました。

彼の「能力の絞り」の範囲をある程度理解していた僕は、彼に適当な一般職を勧めました。

彼の抱えている能力的限界はその職種にはまったく影響が及ばないことが予め十分に予測がついてからです。

結局、彼は一般職での就職を果たし、僕が認知している範囲で少なくとも半年間、なんの支障もなく新しい職務をこなすことができました。

つまり、重要なのは「障害」や診断名の有無により、障害者枠かどうかを判断するのではなく、自身の能力に照らし合わせて一般職も含めて適切な職を探すということです。

「障害」というレッテルは、こうした「当たり前な合理的判断の機会」を見失わせてしまう魔力を持っているのが現実でしょう。

標準障壁と関係のある「生きづらさ」

標準障壁は、「標準:異常」という二項対立により、あなたの能力的な困難さに「障害」やあらゆる診断名のレッテルをはり、あなたから困難を軽減したり解消する機会を奪っていきます。

この根本的な「障壁を除去」しさえすれば、あなたは以下のキーワードに関係する「生きづらさ」を軽減、解消していくことが可能になります。

ここに、一例を挙げておきます。

  • 発達障害
  • 人格障害
  • 適応障害
  • 双極性障害
  • その他、精神障害

最後に

今回は「生きづらさ」の原因となる障壁のうちの2つ目である「標準障壁」について解説しました。

人にはそれぞれ実に多様な「能力の絞り」の在り方が存在しています。

大切なのは「それは変化しうる」という事実に目を向けることです。

一方で標準や正常といった基準は、その外にあるものを「排除」し、そこに固定する「呪い」のような働きをもちます。

だからこそ、僕たちは自分の能力の限界を余計に小さくして、社会や行動の範囲を狭くしてしまわないように

「障害」や「診断名」と距離をとって、自身の能力の範囲を正確に見極めては、その可能性を潰さないようにしていく必要があります。

そこにあるのは「排除」ではなく「可能性」です。

僕たちは予め与えられた「障壁を除去」することで、知らずのうちにかけられてしまった枷を外して人生を楽に生きていくことができるようになります。

次回以降もこれら「埋込障壁」について詳しく見ていくことにします。