【自殺と善悪】自殺は本当に悪いことなのか?

自殺
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【全ての現代人が知っておきたい自殺に対する基礎知識-その①-自殺認識の脱構築編】

この記事は、、、

  • 「死にたい」と思ってしまうことに悩みを抱えている
  • 「自殺」と検索してもしっくりくる回答が得られない
  • 「死にたい」と考えてしまう人のことが全く理解できない

という人に向けて書かれています

「死にたい」と人に相談したり、「自殺」と検索すると必ず話が「自殺の善悪についての議論」(自殺は悪いことか?)に引き摺り込まれていってしまいます。
しかし、「死にたい」と検索窓に打ち込んだ人が本当に知りたかったことはそんなことだったのでしょうか?もっと「切実な何か」についての答えを求めていたのではないのでしょうか。

今回は「死にたい」と思うことや「自殺」と、その「善悪」の関係について反心理学を進めていきたいと思います。

この記事を読み終えると以下の成果が期待できます。

  • 「死にたい」と検索した時、「自分が本当に知りたかったことが何だったのか」がわかるようになります
  • 「自殺」や「死にたい」という思いについて冷静な視点で捉え直すことができるようになります
  • 「自殺」や「死にたい」という思いについて深い考察・理解をする準備が整います

「死にたい」って思ってしまうことってみんなが言うように本当に悪いことなのかな?自殺についても色んな議論がネット上で繰り広げられている。この話題に決着がつくことはないのだろうか?

「死にたい」って思うことが悪いなんてことがあるわけがないじゃないか?

「胃潰瘍」について善悪の議論をする変わり者はいないだろ?それと同じように「自殺」だってそもそも善悪の議論の俎上に載せられてしまうこと自体がおかしなことなのさ。

え?胃潰瘍と自殺が同じだって?そんなことを言うのは君だけだよ?

無関心ならまだしも、下手をすると「三人称の死体」というのは半分娯楽のようになっている。楽しんでいる人もいるように思えます。

養老孟司『死の壁』
\死にたくてどうしようもない方はこちら/

ネット上に溢れる様々な自殺批判

ネット上での「自殺」の月間推定検索数はおよそ30万件とされています。(https://aramakijake.jp/keyword/
これは認知度がそれなりにある人気タレント並の検索ボリューム(同「有吉弘行」:およそ37万件)であり、そのことから「自殺」という語句が現代人の関心をそれなりに引き付けていることが分かります。

「自殺」と検索すると、、、

君たち人間が人気タレント並みに「自殺」に興味があるってのはボクら猫からすると驚いたことだね。

うーん。興味っていうと少し違うかな。。ただ関心を寄せている人は少なくないっていうのは何となくわかる気がするよ。

実際に自殺と検索した際に表示される結果をまとめると以下のようになります

  • 厚生労働省などの公共機関による自殺防止対策Webページ
  • 芸能人の自殺などの報道記事
  • 自殺についての学術記事、公共機関集計の統計情報など
  • 自殺についてのセンセーショナルな議論

ちょっと覗かせてもらったが、君たち人間の「自殺」についての関心ってのは、芸能人や著名人の自殺の記事、自殺の善悪についての議論ってのが中心のようだね

確かにそういう内容ばかりが上位に表示されて人々の関心を集めているんだろうね。だけどボクはホントはそんなことにはこれっぽっちも興味がないんだ。。。

そりゃそうだろうね。自殺を思う人にとって、上記のような情報が、何か役に立つとは思えないからね。

自殺批判・議論の3つのタイプ

そうなんだ。それにこれらの情報や議論の話題っていつも似通った内容に終始していて、何ら新しい発見や得られる情報がないんだ。

うん、ボクが見た限りでまとめると、「自殺」についての批判や議論は以下3つのタイプに集約されるようだね。

自殺批判・議論の3タイプ
  • 倫理・道徳批判:「自殺」は「人として間違っている(正しくない)
  • 非合理性批判:もっとも価値のある命を捨てる「自殺」は「合理的でない
  • 人格的批判:「自殺」は自己中心的な行為であり「薄情な行為だ
自殺、ダメ、絶対!!

そしてその論理から導き出される自殺志願者への助言(?)は次のようなものだ

自殺志願者へ向けられる主張の3タイプ
  • 感傷論:「あなたが死んでしまったら残された人が悲しむ。だから死なないで。」
  • 合理論:「死ぬことが最大の苦しみなんだから死ぬきがあれば何だってできるはずだ」
  • 感情論:「みんな辛いことがあっても必死に生きている、自殺に逃げるなんて卑怯だ」
死なないで!!

cf.死に支えられた人間の生(④-2-3)

「自殺」・「死にたい」、と検索して得られる結果は、どれもいつも上記の議論や主張に集約されていってしまいます。だから「そんなことが知りたいわけではない」自殺志願者の疑問はいつまでも解決されることがなく霧散していってしまうのです

自殺志願者は蚊帳の外

君たち自殺志願者が「死にたい」って誰かに相談したり、検索窓に「自殺」と打ち込んだ時、第三者たちが勝手に議論を始めてしまう。いつも君たち当事者は蚊帳の外に置かれてしまうってわけだ。

そうなんだ。彼らが言っている事はきっと「正しくて、間違いのない事」だよ。

けど、そんな話しはもういくらでも聞いてきたし、そう、その上でそれでもボクらはなお「死にたい」し「自殺」と検索してしまうんだ。。。

では、「自殺」や「死にたい」が話題になると、なぜ、当事者を置き去りにした内容の議論ばかりになってしまうのでしょうか?

「死にたい」と検索しても欲しい回答が帰ってこない3つの理由

「自殺」についての話題がいつも自殺志願者にとって「どうでもいい」内容にすり替えられてしまう理由は次の3つだ。

「自殺」は「善悪の議論」に引き摺り込まれてしまう

「死にたい」と思うことや「自殺する」事は普通の、まともな状態の人にとっては理解しがたい事柄です。

よくわからない事(とりわけ自殺を含む人間の狂気に触れる現象)に対して人は自分の経験や知識ではなく規範を頼りにします

ここでいう規範は「道徳・倫理といった社会的に揺らぎない正しさ」等でしょう。

よって「自殺」は得てして「善悪論」の俎上に載せられて語られてしまうのです。

例えば、熟練したスポーツトレーナーは、自らの経験則から臨機応変なアドバイスが可能です。一方経験の浅いトレーナーはどうしても確立された規範を頼りにしてしまうため、マニュアル通りの指導になりがちです。

このように人は自分の理解を超えた対象に対して規範的な解釈・判断をしてしまう傾向があります

よくわからない事
  • 頼りにする知識・経験がない

    →確立されきった答え・マニュアルに回答が求められる

    →誰もが納得するような当たり障りのない規範的解釈・判断が一様にアウトプットされる
わからない、、、
よく知っている事
  • 頼りにする知識・経験が豊富

    →自らの経験、知識に回答が求められる

    →個々の体験、目の前の状況に即した臨機応変、多様な解釈・判断がアウトプットさえる
よくわかる!

「自殺」は「エンタメ」として消費されてしまう

芸能人や著名人が自殺をすると、それがマスコミによって大々的に取り上げられます。メディアでは専門家や様々な第三者によって自殺完遂者の「心の闇」が暴き出されたりします

ローマ共和制末期に「パンと見せ物」が無産市民により求められたように、「食」と「エンターテインメント」は現代社会においても人々の欲求を満たす主たるものであり続けています。

大衆がより強い刺激を求めて消費行動に駆り立てられ続ける資本主義先鋭期社会では「セックス&バイオレンス」、そして人間の「狂気」は格好の餌食として消費されます。「自殺」という狂気は現代を生きる人々によりエンタメとして消費されてしまうという側面もまた事実です。

また他人の最大の不幸である「自殺」は「蜜の味」として一部の人々から嗜好されてしまうのかもしれません。

「自殺」は「第三者」によって外野から語られる

当たり前の話ですが、自殺について語る全ての人は自殺を完遂したことが無い人物です。
自殺完遂者は口無しなので自殺についてはその実体験を語れるものが原理的に存在し得ません
(自殺未遂者による自殺「未遂」体験の語りは可能ですが)
それ故に自殺についての語りは第三者的にならざるを得ず、三人称の議論に終始してしまいがちです。

ボクたちが知りたいのは、自殺の社会的な善悪の議論でも、芸能人の自殺報道でも、第三者による勝手な自殺の観測的議論なんかでもないんだ。。。

ある人の自殺と【この私】の自殺(三人称と一人称)

「死にたい」私は「悪くない」

ここまで見てきたように、ネットに溢れる自殺に関する情報のほとんどは自殺志願者にとって「どうでもいいこと」だ。

そしてそのどうでもいいことの中に、「自殺」や「死にたい」と思うことは悪いことなのか、という問いがある

そうなんだよ。ボクらはそんな事よりもっと重要な事が知りたくて、検索したのに、何故だか気がついたら自殺は悪いことか?といったどうでもいい議論に巻き込まれてしまっているんだよ

冒頭にあげた結論を繰り返そう。君が死にたいと思う事は悪い事なんかであるはずがない。それは君の端的な感情だ。

そして君たちが「死にたい」と検索したときに本当に知りたかった事はそんなことじゃあなかったはずなんだ

「自殺」や「死にたい」という思いが善悪の議論にすり換えられてしまうのは、それが第三者から見た「誰かの」自殺だからです。

一方、検索窓に「死にたい」と打ち込んだ自殺志願者にとっての「自殺」は「この私の自殺」です。

この混同が自殺についての認識を倒錯させているのです。

cf.自殺が抱える3つの倒錯(⑤-1-3)

自殺志願者が知りたいのは『なぜ【私は】「死にたい」と思ってしまうのか』

そうだ、ボクが関心があるのは「誰かの自殺やその是非」なんかじゃなくて、このボクの「死にたさ」についてのことなんだ。つまり、「どうしてこのボクはこうして死を思ってしまうのか」、「どうすればこの苦しみから解放されるのか」っていうことだったんだ。

そうだろうね。だから「自殺が悪いことか」、なんて事は自殺志願者にとっては、そもそも議論の遡上にすら載せられるべきことじゃないんだよ。それをやってられるのはその時だけは真面目な顔して、うちに帰れば涼しい顔してられる「自殺の外野」にいるような人たちだけなんだよ。

そうボクたちはそんな湯長な議論に付き合っている暇なんかないんだよ。もっと重要な問題を解決しなければ、それは命に関わる問題なんだ

「誰か」の自殺への関心
  • 善悪の議論
  • エンターテインメント
  • 統計情報
他人事
「この私」の自殺への関心
  • なぜ「死にたくなってしまうのか」
  • どうすれば「死にたい」思いから解放されるのか
この私の命に関わること

自殺をニュートラルなポジションから見直す

自殺志願者、当人の問いは「自殺が正しいか、そうでないか」などといった他人事の問いではなく
自分の生死そのものにべったりと癒着てしまった、もっと切実な問いなのです。

「自殺」は長きにわたって、「誰かのこと」として語られ続けてきた。だから、そこから生まれる議論や情報は自殺志願者当事者にとっては何一つ役に立たないものばかりだ

これだけ多くの人が「自殺」と検索している以上、もはや自殺は他人事じゃなくなってきているのかもしれないよ。

そうさ。だからこそ、今は君たちの問いへの答えが求められているんだよ。つまり自殺志願者一人一人の「この私の自殺」に応えうる回答がね。

それはどうやったら手に入るんだい?

それはね、自殺にこびりついてしまっている余計な議論を取り払って、「自殺」を「胃潰瘍」と同じように冷静に扱うことで見えてくるはずさ。そしてそれを成し遂げた者はどうやら人間の社会にはまだだれもいないようだね

じゃあ、それって。。。

そうだよ。君とボクでやるんだ。君とこのボクなら「この私の自殺」を、「語り得ないこと」を語ることができるかもしれないからね

自殺志願者が知りたいこと(=なぜ私は死にたくなってしまうのか・どうすればそれから抜け出すことができるか)を解明するには、善悪や感情的な第三者視点の議論から離れて、ニュートラルな位置から自殺を捉え直す必要があります。

このシリーズでは「自殺」という問題やその解決策を以上の視座より初めから構築し直していこうと思います。

まとめ

今回の反心理学のまとめ

自殺への問いかけは、一人称と三人称の問いがある

ネット上に溢れる自殺に関する情報はほとんどが三人称の「誰かの自殺」についてのもの

自殺志願者の一人称の自殺にとって「悪いことかどうか」はどうでもいいこと

自殺志願者にとって重要な事は「なぜこの私は死にたいのか」「どうすれば私はこの思いから救われるか」という事

自殺志願者の、「この私の自殺」に答え得る回答はまだ用意されていない
それは、この2人がここで作っていくことになるのだろう。

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