【自殺の起源】なぜ人間だけが自殺「できる」のか?

自殺
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【全ての現代人が知っておきたい自殺に対する基礎知識-その④-自殺の起源探究編】

この記事は、、、

  • なぜ人間が自殺をしてしまうのか知りたい
  • なぜ自分が「死にたい」と思ってしまうのか知りたい
  • 「自分は自殺など決してしない」自信がある

という人に向けて書かれています

地球上には770万種以上もの動物が生息しているといわれています。ですが、こと「自殺」という行為をすることができる動物は人間だけだそうです。

人間以外の動物にも、「自殺に類する行為」が少なからず観察されていることは事実ですが、「個体の強い意思の下での、死ぬことそのものを目的とした行為」としての「自殺」はやはり人間という生物種特有の行為であるということができそうです。

「人間だけがなぜ自殺という行為をしうるのか」
「自殺をすること」を唯一人間という種が手に入れた一つの能力と捉え、その起源を探究することで、自殺という現象を解明するための手がかりが見つかるかもしれません

今回は一体なにが人間という種に自殺をする能力を与えたのかについて反心理学を進めていきたいと思います。

この記事を読み終えると以下の成果が期待できます。

  • 自殺の起源がわかります
  • 自殺が善悪や理屈、精神的なものとは別のメカニズムで起こっているということが理解できます
  • 人間はそもそも大きな自殺リスクを抱えている生物だということがわかります

いったい、なぜ人間だけが「自殺」をしてしまうなんていう厄介な能力を身につけてしまったんだろう?

進化論における自然選択説的に考えるなら、「自殺する能力」を身につけることが人間にとって生存にとって有利だったからに違いないさ。

「自殺する能力」が人の生存を有利にする?そんなことがあるわけないじゃないか?

自殺する力を持てるものは幸福なり

アルフレッド・テニスン『ティソーナス』
\死にたくてどうしようもない方はこちら/

「死の観念」の獲得が人間に自殺する能力を与えた

人間が自殺できるのはなぜか?

自殺で命を落としてしまうことは悲しいことだし、誰もが避けたいことだよね。でもそもそもどうして人間は「自殺をしてしまう能力」を持っているんだろう?他の動物のように自殺するってことそのものを知らなければ、自殺したり、「死にたい」って気持ちに悩まされたりすることもなくて済んだはずなのにね。

そうだね。ボクら猫や他の動物は自殺ってことそのものを知らない。だから人間以外の動物たちは自殺を「しない」というより自殺が「出来ない」んだ。

人間はどうやって自殺という行為が「できるようになった」のか自殺の起源をたどれば、自殺のメカニズムについて何らかヒントがそこに隠されているかもしれない。

死の観念がなければ自殺はあり得ない

じゃあまず質問するよ。自殺をするのに必要なものってなんだと思うかい?

え?自殺するのに必要なもの?それって、首を吊ったり、練炭を焚いたり、、命を断つための道具とかのことかな?

いいや、もっと根本的なことさ。そうだね、自殺しようと「思う」ために必要なことって言ったほうがわかりやすいかな。

私たちが「何かをしよう」と思うとき、その「何かをイメージできる」ことが必要となってきます。

例えば、ミロクは好物の「バニラヨーグルトを食べよう」と思う時、少なくとも「バニラヨーグルト」と「食べる」という2つの概念を(暗に)頭に思い浮かべています。

ミロクは「バニラヨーグルト」と「食べる」ということを経験の中で「知っている」からこそ、「バニラヨーグルトを食べよう」と意思することができるのです。

そっか、当然のことだけど、「自殺をしよう」と思うためには、「自分で自分のことを傷つけたり危険な目に合わせる」ってことだけじゃなくて、「自分が死ぬ」っていうことそのものも知っている必要がある。

そのとおり。自殺するためには、「自分が死ぬ」ってこと、もっと言えば「死」という概念そのものを持っていることが不可欠だ。人間以外の動物にはおそらく「死の観念」というものがない、もしくは人間ほどに高度に分化された概念として持ち合わせていない。

たしかに。ボクら人間にとっては当たり前ずぎることだけど、自分が死ぬことを含め、「死の観念」ってものを持っているってことはかなり特別なことなんだね。けどどうして人間だけが「死の観念」なんていうものを持つことが可能になったんだろう?

抽象化思考が「死の観念」を創る

ここで「抽象化思考」という熟語について少しおさらいをしておきましょう。

いま目の前に、カゴに盛られた複数の赤い果実があるとします。それをひとつひとつ手に取り重さを確かめ、かじり付いては味見をしてみます。それらはそれぞれ異なる重さや酸味を持っていることでしょう。微妙な差異であれそれらは全て異なる質量や成分を持った個別の存在です。にも関わらずあなたはこれらの赤い果実を見てひとまとまりに「これらはリンゴである」と認識することができます。

このように「異なる個別の存在に対して、その共通の性質を見出す能力」、あるいは「それら個別から抽出した共通の項目に一つの名前をつけて一括りにしてしまう認識能力」のことを「抽象化思考」と呼びます。

この認識能力が人類に文字や神を想像する能力を与えたと考えられています。数ある動物の中で、人間だけが文字を発明し、神を創造しました。そのことからも人間だけが高度な抽象化思考能力を進化の過程で身につけたことがわかります。

抽象化思考:個別具体の物事に共通項を見出し、一般化する認識能力

抽象化思考っていう認識能力のことはよくわかったけど、それと「死の観念」の獲得がどう関係があるんだい?

人類は目の前に起こる動物や他人の死という個別具体の出来事を一般化したのさ。そしてそれが自分自身に当てはめられた時、自分という存在が「いつか必ず死ぬ」ということを知った。

他の動物や他人の死じゃ「死の観念」は生まれないの?それは自分の死を認識して初めて「死の観念」になるってこと?

そうさ。目の前の死は個別具体な出来事でしかない。目の前にある赤い果実はどこまでも具体的事象だ。それが「リンゴ」というどこにも「実在しない概念」に置き換えられたように、目の前の具体的な死が、自分の死という「存在し得ない出来事」と結びついた時、死は「死の観念」に引き上げられる。

少し難しいけど、目の前の誰かの死という「現実」が、自分のいつか訪れるだろう死という「観念」に置き換えられたってことだね。

そのとおり。そして「自分の死」こそは死が「観念化」されなければ認識不可能なんだ。自分の死はこの自分にとってはどこまでも架空の出来事でしかありえないからね。

生存のための安全装置【死による護法】(虚月)

死の観念がヒトの生存を優位にさせた

じゃあどうして人間はそんなにややこしいことをしてまで「死の観念」なんてものを獲得したんだろう?

それは、それが生存競争に優位に役立つ、あるいは役だってしまったからだろうね。文字や神の創造-宗教が人類に文明や文化をもたらし、その繁栄に貢献したように、「死の観念」もまた人間の生にとって有力な武器となったのさ。

文字や宗教が、人類の繁栄に貢献したことは簡単に想像がつくけど、「死の観念」が役立ったっていうのにはもう少し説明が欲しいなあ。

「死の観念」が人間にもたらした3つの福音

ここに、「死の観念」の獲得が人間にもたらした恩恵を3つ挙げます

死の観念」の獲得が人間にもたらした3つの恩恵
  1. 社会契約を結ぶ能力
  2. 限りある存在としての自己認識
  3. 命への弔い
私は死する存在。

①「社会契約」っていうのは確かルソーって人が提唱した考え方(社会契約論)だよね?「死の観念」と「社会契約」ってどういう関係があるんだい?

ルソーが誰かは知らないが、ここでは単純に「約束を結ぶ能力」って考えても大丈夫だよ。約束ってものは、それを結んだ各々がお互いに守ることで成立するね。じゃあもし一方の人間が約束を破ったらどういうことが起こるかい?

その約束は成り立たなくなっちゃうし、場合によっては約束を守れなかった人はなんらかの罰則を受けるってこともあるんじゃないかな?

そうだね。その罰則ってものが重要なんだ。約束にはそれを破った際のペナルティが前提とされている。そしてその罰則として担保されるものこそが、その約束に参加する者の命、つまり「自分の死」なのさ。

約束の前提となる罰則の行き着く先は、参加者各々の命です。つまり人間は自らの命を担保とすることで初めて、他者と約束-契約を結ぶことができるようになったのです。

だから約束を結ぶことができるのは自らの死を認識する「死の観念」を持った人間だけだってことか。僕たちは普段命懸けで約束なんてしてはいないつもりだけれど、約束の根底には自分の死があるなんて知らなかったよ。

君たち人間が結んだ約束である法律を考えてごらん。法律は死刑という形で君たちの命を奪うことが可能だ。君たち人間は生まれながらにして「自らの命を担保にして」これら約束事に参加することが義務付けられているんだよ。

②「限りある存在としての自己認識」ってのは、なんとなくわかるよ。「死の観念」による「自分がいつか死ぬ存在なんだ」っていう認識は、自分というものを「始まりと終わりを持った帯状の時間の上を生きる連続した存在」だって感じさせれくれるからね。

君たちがよく使う人生ってものがそれだ。それぞれの人間はそれぞれの人生を持った連続した存在だ。目の前に起こる事や今のこの感覚だけを頼りに生きる生物には自己は生まれない。自己は「人生といった時間軸を行く連続した帯状の存在」だといえるね。

③「命への弔い」ってのは、死者を哀れんだり、命を大事に思うってことかな?

そうだね。自らの生が限りあるものであることを知った、自己を持った存在のみが他者の死における「有限性の喪失」を感知できる。死の観念がなければ他者の死は、生命活動の終焉という物理的な現象の一つでしかない。そこに限りあるものが失われてしまったことに対する哀悼や悲しみは生まれないだろうね。

これら人間にとって当たり前のように思える3つのことは、「死の観念」がなければ決して有り得ない恩恵なのです。

死に支えられた人間の生

約束を結ぶことや自己、命への弔いという能力が「死の観念」を獲得することで身についたものだということはわかったよ。じゃあ、これらの能力が人間の生存にとってどのような「恩恵」として働くんだい?

君たち人間の世の中は①社会契約によりお互いの安全を保障しあっているね。ボクら猫社会のような自然状態ではいつ誰から危害を加えられたっておかしくない。

そうだね、特別な状況に直面しない限り、当たり前すぎて意識されないことだけど、たしかに僕たちは法律をはじめとした多くの約束事によって身の安全を未然に守られている。

自己の認識についてはこうだ。君たちは死という終焉に向かった時間軸を生きている。その認識が長期的な視点での利益の選択を可能としている

長生きするために暴飲暴食を制限したり、身体づくりのためにトレーニングをしたりっていうのがこのことだね。確かに自分がこの今を生きるだけの存在でしかないとすれば、ひたすら目先の欲望だけを求めて短絡的に行動して、命を危険に晒す可能性を増やしてしまうだろうね。

そして③命への弔いは、殺しの抑制力として人間の安全に貢献するだろう。いかにルールにより殺しが禁じられようそれが破られてしまう状況は存在する。はたまた殺しが戦争などで強要されることもある。そんな折に、命への弔いは、「躊躇い」という形で「人間による人間の殺害を防ぐ最後の砦」として働くのだろうね。

「人の死を悼む」という感情は同時に「他者の殺害への躊躇い」という心象と表裏一体になっているんだね。

死の観念」の獲得が人間にもたらした3つの恩恵
  1. 社会契約を結ぶ能力→他者からの危害、闘争を未然に防ぐ
  2. 限りある存在としての自己認識→長期的視点で自分の命守ろうとする(長生きのため目先の快楽を我慢する)
  3. 命への弔い→殺しに躊躇いをうむcf「躊躇いの
生存に有利

このように人間の生存は「死の観念」によって作られた安全装置によって下支えされているのです。

※全ての自殺批判はこれら3つの守護の裏返しになっている
cf.自殺批判・議論の3つのタイプ(①-1–2)

死の観念の功罪・副作用としての自殺【死による救済】(落月)

隠された4つ目の福音

ここまでは「死の観念」の獲得が人間の生存を有利にする3つの恩恵をもたらしたという話しだったね。

そう。そしてここからが本題だ。「死の観念」はこの3つの恩恵だけでなくもう一つの能力を人間に与えた。

「死の観念」は人間にもう一つの隠された福音をもたらしました。
それは場合によっては人間にとって毒となる、とても危険な福音だったのです。

「死の観念」を手に入れた存在にとって、自らの死は自身の体験世界の一切の事象の終焉をイメージさせる。それは自分という存在が永久に失われてしまうという恐怖感とともにある甘美な誘惑を人間に与えるんだ。

誘惑?ボクにとって死はただただ恐ろしいことでしかない気がするけどなあ。

そうかい?それなら君はしあわせものだってことさ。死は生きることにおけるすべての幸いの喪失とともに、一切の苦しみをも呑み込んでしまう力を持ち合わせている。死はあらゆる苦痛からの完全かつ絶対的な逃避先として古来より君たち人間を惹きつけてきたんだ。

確かに死んでしまえばどんな精神的な苦しみも、物理的な痛みも感じることはないだろうね。だけど人生の中で起こる困難の回避のために人生そのものを終わらせてしっていうのは倒錯した考えなんじゃないかな。。。

倒錯していようと、間違っていようと死はあらゆる苦痛からその人を解放しうるというのは端的な事実さ。

4つ目の福音。。。それはあらゆる苦悩から解放されうる逃避先へと避難する能力

そう、それが人間という種だけに与えられて能力-「自殺」さ

自殺がすべての苦しみからの回避先になることは理解はできるよ。だけどやっぱりそれはその人にとっても人類にとっても決して良いことじゃないはずだよね。自然選択説っていう考えから見ても、生存を脅かす能力が残されてしまうことには矛盾がある気がするよ

そうだね、死に逃げ込んでしまえばそれはただの毒でしかないだろうけど、実際のところ、人間はこの毒の濃度をうまく調整することで。それを薬として用いているようだね。君たちは睡眠によって一時的にだが苦痛を回避することができる

え?睡眠?確かに寝てしまえば嫌なことなんか忘れてしまえるし、嫌なことが重なった時睡眠に逃げ込むってこともあるよ。けどそれと自殺になんの関係があるのさ?

意識の遮断機能という面で死と睡眠は相似形をしている睡眠による精神活動の一時停止という辺を無限大までに伸ばしたものが死といえるからね。君たちは「暗に」死による苦痛の絶対的回避を知っているからこそ、睡眠というそのミニチュア版に同じ機能を求めることができるのさ。

このことが睡眠との相似性をもち睡眠が自殺の応急処置となりうる理由
cf.死と眠りは相似型・精神的に回避する(⑦-3-1)

このように4つ目の福音は人間に苦痛からのの精神的回避策をもたらしました先の3つの恩恵と合わせたこれらの「功」。そして自殺という「罪」。「死の観念」は人間にこれら功罪の両面をもたらしたのです

自殺にかけられたリミッター

自然選択説明的に見れば、これら功罪を天秤にかけた時、トータルとして利益の方が大きかったから人間は「死の観念」の獲得を選択したということになるんだね。

そうさ。それに4つ目の恩恵が孕む危険性-自殺-に先の3つがリミッターをかけるという形でこれらは、普段、人間にとってうまく機能している

3つの福音によるリミッター
  1. 社会契約を結ぶ能力→善悪の価値観の共有「自殺は悪いこと」
  2. 限りある存在としての自己認識→自身の命の希少性の獲得・死の恐怖「自殺はもったいない・怖い」
  3. 命への弔い→死への共鳴「自殺は悲しい」
自殺を抑制

僕たち人間の生は自殺というリスクを抱えつつも、死によって守られているってことなんだ。そんなこと少しも知らなかったよ。

本来君たち人間にとって、「生と死」、「生き抜いていくこと」と「自殺してしまうこと」はいつでも背中合わせなんだよ


@モンスターボールの図

リミッターが解除された時

けど、これら3つの福音による自殺へのリミッター掛けが解除されてしまうなんてことが起こったら。。。

人生という大海原を航海する船を想像してごらんよ。海面上を安全に運行する船は一度浸水を起こせば、船内にいる人々を海底へと引き摺り込む魔物と化す。それと同じようにリミッターが解除された福音は「苦しみからの救済」という姿をしてその人を強引に自殺へと誘い込む死の宣告に変わるだろうね。

自殺という能力が、こういった成り立ちをしているということがわかったら、それがいかに抗いがたいものなのかがよくわかる気がするよ。善悪の議論や倫理、道徳っていったことよりもっと原始的なところにそのプログラムが組み込まれてしまっている感じだね。

そうさ、「自殺の起源」は君たち「人間を人間たらしめている根底部分」にある。だから自殺という現象は人間というシステムの基幹部に発生するバグプログラムのようなものだ。それを枝葉の精神論や理屈で乗り越えるのはとてもできることではない

表裏一体になった「生」と「死」その表裏がなんらかの原因でひっくり返ってしまって起こるのが自殺なんだね。。。じゃあそのなんらかの原因っていうのはなんなんだい

「自殺の起源」が人間を人間たらしめている「死の観念」にあり、それゆえ私たちの生は自殺と常に背中合わせの状態にあることがわかりました。そしてそんな中でも私たちが容易に自殺をしてしまわないのはそれが様々な福音により制御されているからでした。次回は、これらのリミッターが解除されてしまうメカニズムを解明していこうと思います

まとめ

今回の反心理学のまとめ

自殺の起源は、人間のみが手に入れた抽象化思考による「死の観念」にある

「死の観念」は様々な恩恵とともに自殺のリスクを人間にもたらした

普段自殺のリスクは恩恵により制御されているが、なんらかのきっかけでそれらのリミッターが外されれば、人間は海の藻屑の如く自殺の渦に飲み込まれていく

「自殺」は人間のより根幹に根差したバグプログラムであり、ニューラルな現象であるがゆえ、「正しさ」や「精神論」で乗り越えられるというのは幻想に過ぎない

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