【全ての現代人が知っておきたい自殺に対する基礎知識-その⑤-自殺のメカニズム解明編】
どうして人間には自殺する能力が備わってしまったのか。「自殺の起源」を辿ることに成功した私たちは、人間が本来的に「自殺」と常に隣り合わせにある「生」を送る動物であることを知りました。
そして「自殺」とはそれにかけられたリミッターが解除されてしまった時に起こってしまうニューラルなバグプログラムであり、それは精神論や理屈で回避することが不可能な現象でした。
では、普段は制御下にあり暴走することがないはずの「自殺」という死のプログラムがなぜ実行されてしまうのでしょうか?
今回は自殺を未然に防いでいるリミッターが解除されてしまい自殺が起こってしまうメカニズムについて反心理学を進めていきたいと思います。
人間が自殺というリスクを背負った存在だってことはわかったよ。だけどそれでも多くの人は自殺をせずにその生涯を終えられるんだ。一体何が自殺というバグプログラムの暴走を引き起こしてしまうんだろう?
どんなプログラムであれそれが実行される上での前提となる環境が存在する。サウナの中でノートパソコンを立ち上げる人も、砂上に船を出す人もいないように人間というシステムにも正常に稼働するための環境面についての条件がある。
環境面についての条件?じゃあそれを破った時、人間は故障を起こし自殺という倒錯した行為を行なってしまうっていうのかい?
三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず
空海『秘蔵宝鑰』
自殺は愚行ではなく錯覚による行為
飛んで火にいる虫たちの言い分
君は「飛んで火にいる夏の虫」って言葉をきいたことあるかい?
うん。さすがに火に飛び込む虫を見たことはないけど、蛾なんかが夜中に街灯やコンビニのネオンに群がっているのはよく目にするね。
愚かな行動をする人をそんな虫たちの姿に重ねて揶揄するのに使われる言葉だよね。
じゃあ君はそうやって短い命を終わらせてしまう虫たちのことを「愚かだ」とか、「根性が足りてない」とか言って非難するかい?
まさか。虫の行動に精神論なんかあてはまめるのはナンセンスだし、気の毒なことだけどきっと虫たちには虫たちなりの理屈があって、自らの命を危険にさらすことになっているんだろうからね。
つるぎ青年の言うとおり、飛んで火にいる虫たちには彼らなりの理屈が存在しているようです。詳しくは次の論文〇〇を参照されてください。
この論文によると、「走行性というプログラムを抱えた昆虫が遺伝子的に想定していた範囲外の環境に置かれることによって、生命維持に必要不可欠だった機能が返って命取りになる機能として働いてしまう」、ということが解説されているね。
そう。具体的には、「夜空に浮かぶ月の光を頼りに飛行する」ようプログラムされた昆虫たちにとっての「目の前に現れた焚き火や街灯の放つ光」が想定外の環境にあたる。古来長い間地球上の生物にとって夜間に存在する光源は月や星の光に限られていた。それが人類の誕生によって月光以外に人工的な光源が彼らの目の前に出現してしまうようになったんだ。
そしてその想定外の環境において虫たちの持つ「走行性」は、夜間安定した飛行をするための「安全装置」から、光源に一直線に飛び込むよう彼らを仕向ける「死のバグプログラム」へと変貌してしまうというわけだよね。
そう。だから君がいう通り、「虫たちには虫たちなりの言い分がある」ってわけだ。それは遺伝子レベルで組み込まれたプログラムによるニューラルな反射行動だ。それゆえ虫たちのことを愚かだと非難することは出来ない。
ライフアウテージ
話しを人間に戻そう。「走行性」を持った虫たちが一種の「錯覚」を起こして火に入り命を落としていくように、君たち人間の「自殺」という行為にもある種の「錯覚」が大きく関与している。
「自殺」が虫たちが起こしてしまうような「錯覚」によって起こるってことかい?
そうなんだ。想定外の環境に置かれることで起こってしまう生命維持のバグプログラム。ここではそれを「ライフアウテージ」とでも名付けよう。人間にとっての「死の観念」は通常では生存を有利にさせる安全装置として働くが、ある環境においてそれはライフアウテージを引き起こす凶器と化す。
虫たちにとっての目の前に出現してしまった、そこにあるはずのない月の光。そしてそれによって起こる走行性のバグによる錯覚。人間にとっての想定外の状況とそれによって引き起こされる錯覚っていったい。。。。
自殺が抱える3つの倒錯
ライフアウテージを引き起こす人間にとっての想定外の環境・そして錯覚とはいったいどのようなものなのでしょうか?
まずここでは人間を自殺に引き込む「錯覚」の内容について見ていきたいと思います。
走行性を持った虫たちはある錯覚により、目の前の光源に飛び込んでしまう。じゃあ人間を自殺に駆り立ててしまう「錯覚」っていったいどういうものなの?
それは自殺という行為にある倒錯性を整理することではっきりとしてくる。ここで一旦「自殺」がどの点において倒錯しているのかをまとめてみよう。
- 自殺の倒錯その①:反道徳性
「自殺」が社会的、道徳的にみて「正しくない」ことは疑いようのないことです。にも関わらずなされてしまう自殺という行為には「反道徳性」という倒錯があります。
第三者目線で語られる「自殺」について、それが正しくないことは自明なことだったね。大切なのは自殺志願者にとっての「自殺」について、「正しさ」の議論は全くもって意味を為さないということだった。
cf.「死にたい」私は「悪くない」(①-3-1)
- 自殺の倒錯その②:視野狭窄性
自殺志願者を死に至らしめる苦難は、側から見れば「とるに足りないほどの瑣末な悩みや出来事」であることがほとんどです。また自殺志願者当人ですら「死にたい理由そのものが見つからない」「何が苦しいのかわからない」ということさえあります。にも関わらずそれらの問題を自殺に至らしめるほどの苦難として誤認-過大評価してしまう自殺には「視野狭窄性」という倒錯があります。
視野が限りなく狭くなることで「ある物事の大きさ・程度を見誤ったり、他の選択肢が目に入らなくなったりする」ことを「視野狭窄」という。
cf.新型化した自殺:理由なき希死「とにかく」死にたい・消えたい(②-3-2)
- 自殺の倒錯その③:非合理性
死は全ての終わりであり、生の内部での苦しみを回避するためにそれを選ぶという判断は明らかに合理性を欠いた行為です。にも関わらず苦難を逃れるために自らの死を選択してしまう「自殺」には「非合理性」という倒錯があります。
これについても、第三者的に眺めれば自殺は極めて不合理な行動に見えるけど、自殺志願者当人にとっては「苦痛からの精神的回避策」として生じる極めて合理的な感情だとも言えるんだったね。
cf.「死にたい」は「痛み」からの精神的回避策(③-3-1)
補足だが、これら「3つの倒錯」はそのまま、「自殺志願者に向けられる批判」の内容となっている。
cf.自殺志願者の相談が無意識にしてしまう3つの人格批判(③-2-2)
自殺を招く3つの錯覚【自殺兆候】
ここまでの話しの流れから考えると、自殺志願者たちは君がいう「ある種の錯覚」を起こすことで上で見た「3つの倒錯」を犯し、自殺の遂行に至ってしまうってことだよね?
そうだ。そしてその錯覚こそがボクたちが以前定義した【自殺兆候】そのものであり、自殺を引き起こす真の要因なんだ。
個人の性格や考え方の癖。人生で直面する困難なんかが自殺の原因のように考えられてきたけれど、それらは要因の部分にしかなり得ない。自殺が起こるにはそれらの部分を全体に至らしめる、なんらかの方法・操作が存在しているはずだったね。
そう。そしてそれが【自殺兆候】という錯覚状態なんだ。以下【自殺兆候】が引き起こす3つの錯覚を見ていこう。
cf.自殺兆候こそが自殺を引き起こす(②-2-2)
【自殺兆候】が引き起こす錯覚①:理性解体
【自殺兆候】は自殺志願者の理性を解体する。理性が効かなくなった錯覚状態においては道徳・倫理・法といった人間社会で生きる上での前提となるルールが無意味なものとみなされてしまう。
僕たち人間が暗黙の了解として受け入れているルールは未然のうちに自殺を防いでいるんだったよね。そのリミッターが外されてしまうってことか。。。
そうだ。それゆえ、【自殺兆候】を発症した自殺志願者へ向けられるいかなるまともな意見・議論も全くもって意味を為さないんだ。
【自殺兆候】が引き起こす錯覚②:希死喃語
2つ目には少し説明が必要になる。君は赤ちゃんが使う喃語ってものを知っているかい?
喃語、、、確か「アー」とか「ダァー」みたいな、まだ言葉を話し始める前の特に意味のない声のことだったよね?
そうだね。正確には意味がまだ未分化な言葉のことだ。赤ちゃんたちにとっては何らかの意味があって発生されている言葉だが、彼ら自身にとってさえそれが何なのかハッキリとわかっていない。
その喃語が、【自殺兆候】とどう関係があるの?
「死にたい」や「消えたい」っていう言葉の大半は大人が用いる喃語なんだ。これを「希死喃語」と名付けることにしよう。
人間は生きていく上で様々な苦しみ・痛みに遭遇します。それは身体の深部の痛みであったり、目の前に起こった苦難であったりもします。人間が体験する苦しみは4つに分類されますが、それらの苦しみ・痛みの全てを性格に把握することは大人でさえ困難です。
cf.
例えば、何となく気分が悪い、イライラしている時、実はその原因が睡眠不足や腹痛からくる不快感によるものだったということがあります。このように人間は自分が抱えるストレスや不快感を自分自身ですらあまり正確に把握できずにいることがあります。また、どこかが痒いけどどこなのかわからない、といった経験はないでしょうか?これも痒みという苦痛が未分化なまま捉えきれない一つの例でしょう。
ここで「死にたい」や「消えたい」という言葉、感情に目を向けてみましょう。これらは何らかの苦しみ・痛みをうまく言語化できずに漠然と「苦しい」と嘆いている=「喃語」と捉えることができます。
抱えきれない苦しみや、多岐にわたる不快感はそれを正確に捉え言葉で表現するにはエネルギーを要します。そこでザックリと大きな苦しみとそれを未分化のまま把握し、そこからただ解放されたいという思いが先行し「死にたい」や「消えたい」という言葉、感情が結ばれてしまうのです。
このように「死にたい」や「消えたい」という言葉は、未分化の苦しみを出来る限り負荷をかけずに言語化し発散させるために大人が用いる「喃語」と解釈するができます。
「理由なき希死」っていうのもきっとこの希死喃語の一つなんだね。苦しみがあまりに未分化で自分では死にたい理由が特定できず「ただただ死にたい」と感じてしまう。
cf.
そうだね。そして【自殺兆候】の下ではあらゆるとるに足りない苦しみが未分化のまま「死にたい」という思いへと安易に結び付けられてしまうのさ。
【自殺兆候】が引き起こす錯覚③:「苦」のメタ回避志向
そして自殺志願者を自殺へと駆り立てる原動力となるのが3つ目の錯覚、「苦」のメタ回避志向だ。
「死にたい」っていうのは苦しみから解放されたいっていう思いの現れだったよね。メタ回避っていうのはどういう意味だい?
人生の「内部」で起こる諸々の苦しみを、人生の「外部」にある避難先に逃げ込むことで回避するという意味で自殺は苦しみの「メタな回避策」といえるね。【自殺兆候】においては普通人生の内部で行われるはずの苦しみの回避が、死というメタな方法に飛躍して行われてしまう。
「死」が苦しみからの唯一の救済地になってしまえば、そこはブラックホールのように自殺志願者を飲み込もうとするかもしれない。。。
【自殺兆候】によるこれら3つの錯覚により、先に見た3つの倒錯は簡単に為されてしまうのです。
どうだろうか。人々の常識や理解を優に超えて遂行されてしまう自殺という行為。それは一部の特別な人間の狂気による「愚行」なんかではなく、これらの錯覚下で容易に選択され、合理的に為されてしまう「錯行」といえるのかもしれない。
【自殺兆候】を招く抽象思考の低下
ここまでは【自殺兆候】による「錯覚」について詳しく見てきました。続いて、それらライフアウテージを引き起こす、人間というシステムにとっての「想定外の状況」の内容について洞察を進めていきたいと思います。
虚月:生を支える抽象化思考
人間という種は抽象化思考によって生存競争における様々なアドバンテージを手に入れたことは既に見てきたね。
うん。そしてとりわけ抽象化思考による「死の観念」の獲得はボクたち人間の生を守護すると同時に、自殺というリスクをもたらしたんだったよね。ボクたちの生はいつでも自殺と背中合わせだった。
cf.
そのとおり。君たち人間はいわば「死の観念」という人工の月を夜空高くに打ち上げることで、人生を安全に飛行するための道案内を手に入れたわけだ。ここではそれを虚ろな月-虚月-(ペーパー・ムーン)とでも呼んでおこう。
cf.虚月:夜空に打ち上げられた虚な月(④)
落月:2つの抽象化思考シフト
虚月か。。。虫たちにとっての月が突如目の前に現れてしまったのと同じように、人間にとっての抽象化思考という月が、夜空ではないどこかに現れてしまった時、ライフアウテージが起こってしまうってことだね。
そのとおり。人間にとっての月は抽象化思考だ。月の落下とは抽象化思考能力の低下を意味する。つまり【自殺兆候】は抽象化思考能力の低下という人間にとっての想定外の状況下において発症するバグプログラムってわけだ。
- 高い水準の抽象化思考→「死の観念」が「死による守護」として働き人間の生存を支える
- 低い水準の抽象化思考→「死の観念」は「死による救済」として人間の生存を脅かす
以上のように抽象化思考能力の水準が「死の観念」が薬となるか毒となるかを左右しています。
じゃあ、これまでの話しをまとめてみると、自殺が起こるまでの順序は次のとおりってわけだね。
抽象化思考の水準の低下
↓
自殺兆候(錯覚)
↓
自殺の倒錯
↓
希死
↓
自殺
そうだ。それじゃあ抽象化思考の水準の低下がどのように【自殺兆候】を招くのかを具体的に見ていこう。
抽象化思考の水準の低下は人間の認知に2種類のシフトをもたらします
- シフト①:「死の観念」がもたらす福音の功罪のフォーカスのシフト
「死の観念」は次の4つの福音を人間にもたらしたのだった。
そして4つ目の福音は薬にも毒にもなるとても危険なものだったよね。
そうだ。そしてこれらは上から順により高度な抽象化思考水準を必要とする。つまり抽象化思考の水準が低下していくと、、、
1から4に向かって機能が落ちていくってことか。、、、ってことは。。。
そうだ。通常は1〜3に集中されていた機能が、最終的には4「死による救済」にのみ機能がフォーカスされてしまう。それは上位機能(1〜3)による下位機能(4)へのリミッターの解除を同時に意味する。こうして4つの福音による功罪、薬と毒(生存と自殺)の逆転現象が起こる。
【自殺兆候】との関係を見ると次のようになるね。
- シフト②:言語化水準のシフト
二つ目のシフトは言語水準についてだ。言語は抽象化思考の産物の主たるものだった。
抽象化思考の水準が低下した時、上で見たシフトと同時に言語水準の低下も起こるってことだね。
そうだ。そして言語水準の低下は苦しみの分化水準のシフトをもたらす。例えばこの水準によって「死にたい」という思いは次の段階を遷移する。
言語化された苦しみ(理由):「〇〇だから死にたい」
↓
漠然とした苦しみ:「苦しくて死にたい」
↓
未分化の苦しみ:「とにかく死にたい」(理由なき希死)
これが希死喃語の【自殺兆候】が発症するメカニズムか。
これらが抽象化思考水準の低下が3つの【自殺兆候】を招くメカニズムさ。
こうやってみると自殺っていう現象は抽象化思考能力水準の低下っていうよりニューラルなところに端緒をもつ出来事だってことがよくわかるね。どうりで善悪論や精神論で太刀打ちができっこないわけだね。
君たちが抽象化思考によって夜空に打ち上げた月(虚月)が落ちた時、【自殺兆候】という「錯覚」が醸成されてしまうんだ。ボクはそれを落ちゆく月-落月-(ドロップ・ムーン)と呼ぶことにしている。
月落ちゆく僻地に揺蕩う虚な命
以上がこれまでブラックボックスに閉じ込められ続けてきた「自殺」が起こるメカニズムだ。そして実際に希死、そして自殺が起こるまでのプロセスは次のような順列、組み合わせによるだろう。
- 何らかの理由で「抽象化思考の水準が低下」が起こる
- 【自殺兆候】という「錯覚」が起こる
理性解体→自殺をすることへのストッパーが効かなくなる
希死喃語→とるに足りない苦しみが、致命的問題に格上げされる
「苦」のメタ回避志向→「死」だけが全ての苦しみを回避しうる救済地として自殺へと誘い込む - 倒錯を孕む-希死・自殺が起こる
【自殺兆候】を患った自殺志願者は、苦しみを回避するため、まるで生き残る術を求めるかのように自殺という救済地に足を運んで行くんだね。そこには「苦しみ」か「死」の選択肢だけしか残されていない。。。
彼らは「生き残るために死に向かう」というパラドクスの中を彷徨うんだ。まさにそこは最後の僻地(Hollow Labyrinth)といったところさ。そこにはどんなまともな、正しい助言も、批判も届くことは決してない。
そしてそのことに誰にも気づかれることもなく、理解されることもなく、場合によっては安易な相談により「死を思ってしまうこと」を全否定され、とどめを刺される形で、彼らは命を落としていくんだね。。。
ボクら猫には理解できっこない話だが、「死よりも恐ろしいこと」があるとするなら、それはその場所で起こる諸所の出来事のことなのかもしれないね。
そんな酷くて、悲しいことが。。。
それが君たち人間の身に本当に起こってきたのだとしたら。。。
ボクは「錯覚によって失われていった多くの魂たち」を、この洞察のレクイエムを用いて弔うことにしよう。
今回は、自殺を引き起こす錯覚が起こるメカニズムを解明しました。その端緒は抽象化思考水準の低下という現象がありました。ではその現象を引き起こす何らかの理由とはいったいどのようなものなのでしょうか?次回は「抽象化思考水準の低下を引き起こす原因」を解明していこうと思います。
今回の反心理学のまとめ
飛んで火にいる虫のように人間の自殺も愚行ではなく錯覚により起こる
人間に生存と自殺のリスクという功罪をもたらした抽象化思考の水準の低下は、功と罪、薬と毒を逆転させるトリガーとなる
自殺兆候という錯覚状態に陥った自殺志願者の彷徨う最後の僻地には死より恐ろしいことが存在しているのかもしれない